日記

日記です

20200616

 すべりこみでamazarashiの『新言語秩序』のライブ映像(YouTubeで今日まで無料公開されていたやつ)を観た。とても良かった。この言語による内省こそがamazarashiの核であり、セカイ系実存主義と接続していく部分なのだなと思った。

 「言葉を取り戻せ」がテーマであるが、音楽である以上、言語だけの力だけでもないとは思っていて、あの歌声から紡ぎ出されれば多少雑な言葉でも力を持ってしまいそうだし、それにすぐ『令和二年』という曲を歌ってしまうように黙れない人なのだろうなとも感じて、それがときには危うさも持ちそうだけど、そういったことも含めた強い内省を感じた。ひょっとしたらときどき的外れだったり、不用意なことを言うかもしれないけど、それも許容して愛したくなった。今まではamazarashiは部分的に好きというくらいだったんだけど、今日からは明確に好きというかもしれない。

 昨日から「実存は本質に先立つ」ということについて考えている。意味づけのできない人生は不安であったり虚無的に感じてしまったりする。でもどんなに求めても外部から意味づけをしてくれる神の存在を信じることはできない気もしていて、だから、結局自分で作っていくしかないのではないか。

 今やっている行為を自分で意味づけていく行為を、昨日は創作的推理、多重解決的推理に重ねたりした。今日観たamazarashiのライブテーマ「言葉を取り戻せ」も、結局はそういった言葉による自身の再定義という側面を重要視したものであり、ここに関連を見出したくなっている。

 自分で自分を意味づけていかないといけない、解釈していかないといけないというのはとても大変なことだ。正直しんどい。そんなこと考えずに生きていければ、と思う。でもそこから逃げ出すこともできない。

 秋田ひろむを「黙れない人」と評したけど、それはこんな日記を3年近く続けてしまっている僕も同じことなのだとは思う。自分が感じているいろいろなことを全部言葉にしたいという欲望がある。表現をより精緻にできるようになることだけが唯一救われる道なのではないかとすら思っている。

 黙れない、黙りたくない。それが誰にも届かないものだとしても、僕が僕を解釈するために決定的に必要な言葉というものがきっとある。僕はそれを見つけ出したい。社会情勢に振り回され、自分の無能さに辟易し、そういう中でなんとか生き残っていく日々を、文章にして表現して解釈して、そうやって少しでも自分の輪郭をつかめていけたら。