日記

日記です

20200519

 少しは作業ができたが、今日も別に状態が良いわけじゃない。昨日よりはマシだけど、それは単に締め切りが近づいたから強制的にやる気持ちが高まっただけ。

 精神的にストレスが高まると昨日の日記みたいなものを書いてしまうわけだけど、これは本当に自傷行為だなぁという気がした。単に僕が刃物は苦手で言葉は苦手じゃないから日記という形式になっているだけで、逆だったら容易に手首を傷つけていたんじゃないか。

 自傷行為をすると落ち着くのは「悪い自分を否定していることは正しい」という理屈だと思うが、一時的な落ち着きが得られるだけで状況が進歩するわけじゃない。だから同じことを繰り返してまた自傷して……ということになってしまう。もっと前向きな反省、原因の分析とその対処といったことをしていかないといけないと思う。

 もっと僕は自分を制御できるようになりたい。と思うのに何度も裏切られているから「自由意志の否定」みたいなことを考えてしまうんだろうなぁ。僕にとって自由意志の問題は形而上学的な話というよりはもっと実践的な話に思える。

 とても好きな本だった。カウンセリングという形だが、時間をかけて人を理解していくという意味での愛を語った本でもあるように読めた。すぐには断定できないことに対して粘り強く付き合っていくという姿勢がこの世に存在することそのものにいくらか救われた思いがする。

 本の中ではとにかく「聴く」ことが重要だと強調されている。カウンセラーは聴くことが仕事だとはなんとなく見聞きしたことがあったけど、それがこんなに徹底した態度だとは知らなかった。話し手側の気持ちに寄り添った視点からすると、生まれてきた疑問を問いかけることすらノイズになるかもしれないとは。

 それでいて人間が「勝手に立ち直る」ことのできることへの信頼感がある点もすごく胸に来る。精神分析的立場を取っているし、ある意味では非常にドライな見方をしている一方で、こういった根底の信頼感は存在している。

 また最後の「カウンセリングの限界」についての話も面白かった。こういう割り切れない問題を、でもしっかりと考えてなにか一歩先の答えを得ようとする態度それ自体に知性を感じる。僕の目指している知性というのはまさにそういうものなんだろうな。

 「限界」の問題とも関連しているが、精神病を完全に心因的な問題(カウンセリングで扱う対象)とは切り離して考えているところも専門家っぽくて好ましいと感じた。やや古い本なのでこれが現在でもそうなのかはもう少し調べてみないとわからないけど、これらが全く違う問題だというのは言われてみればそうかもしれないと思う。 

 一点謝らなければならない点があるとすれば、以前シャニマスにおけるPの役割をカウンセラーになぞらえて「変われない立場」と評したことがあったんだけど、カウンセラーが変わらない立場(を理想としている)というのは誤解だった。本当の意味で壁を目指しているわけではないんだな。

患者がよくなっているときは、なんらかの意味においてセラピストもどこかで成長していなかったらだめです。それは本当に相共にするものです。

 あとはどうでもいい話として、あまり良くないのではないかという例で取り上げられていた以下の

「悪い人がいるんなら、その人に会いに行ったらいいじゃないか」

という言葉が、あまりにも河野裕の階段島シリーズにおける真辺由宇というイメージで笑ってしまった。それは人間の機序を理解していない言葉かもしれないけど、それはそれで失われてほしくない純粋さだなとも思う。

 実践的に、これだけの情熱を持って人と接することは難しく、仕事であるか、愛がないとやっていけないことだと思う。本文中でも言及があったけど、カウンセラーは「もの好き」じゃないと無理というのはそんな気がする。

 そういうことを考えてみたとき、僕は僕のことをすごく考えていて、粘り強く付き合っていく覚悟があるなと思う。僕は自己評価が高いとか自分のことを美しいとか思っているわけじゃないけど、自分に対する興味が強いという意味で自己愛がある方だとは思う。この世に自分という、こんなにも自分を愛する存在がいることには嬉しさを感じる。