日記

日記です

20200823

 午前中はゆっくり起きてから1時間ちょい作業。午後は本を読んだり。

上京

 新海誠が都会と田舎みたいな対比を強く打ち出していたり、amazarashiが青森県出身でやはり東京への複雑な感情を歌っていたりすることについてちょっと考えていた。僕は東京に電車一本で行けるような関東で育った人間なのでそういう東京への特別な思いはない。東京に近いとそれはそれで感情的な欠落があるのかもしれない。

 高校3年間東京へ行き続けていたはいたが、実のところ本当の都会にはそれほど行っていない。新宿とか渋谷には数えるほどしか訪れたことはないし、秋葉原だって訪問回数はギリギリ2桁に達する程度だったと思う。西日暮里や田端、塾に行き始めてからは御茶ノ水が僕の中心的生息地だった。

 『天気の子』が高校生のときに上映されていたら学校終わりとかに「ちょっと行ってみないか?」みたいな流れになっていたのかなと思ったりした。当時もなにかよくわからないドラマの撮影かなにかがあって有名な女優だかなんだかをクラスメイトが見に行くとかなんとか話をしていた気がする。無自覚的に存在する東京の影響を感じたり感じなかったり。

 特になにかオチがあるわけでもないんだけど、こういう意味でも僕はすごく狭い視野しか持たないということを思った。海外旅行に行くまでもなく国内の知らない場所に行くだけでも新しい発見はありそう。別にそういった新しい発見をしたいわけじゃないので旅行に行く予定はないけれど。

暴力の哲学 (河出文庫)

暴力の哲学 (河出文庫)

 思ったより歴史的な内容が多かったし、言葉遣いもやたらと難しくかったので挫折した。

 本を読むときに挫折することをもっと許容したいと思う。この本も確か2週間くらい前に読み始めて、つらくなって放置しており、僕の性格上、ある本を読みかけたまま他の本を読むというのが難しくて本を読むという行為自体から離れてしまっていた。それは損失が大きい。合わなかった本は合わなかったと認めてさっさと次へ行った方が良いだろう。


これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

 何回目かの読み直し。まだ冒頭の方を読んだだけだけど、この本はやはり道徳に関してかなり重要な考えを提示していると思う。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学社は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」

 これはまさにそういうことで、社会に存在している既存の価値体系(道徳基準)に自分が乗るかどうかというのは自分が決めることでしかないのだ。もちろん価値体系は自らの価値体系が崩壊しないように振る舞う(たとえば道徳教育をする、罪に対して罰を定めるなど)が、それは当然のことで、そうしない価値体系は自然に滅んでしまうから残る価値体系は必然的に自らを守る構造を有しているのだろう。それに自分が乗るかはまだ別の問題だ。

 あー、すごい。この本は本当にすごい。最近、電子書籍でのラインマーカーの使い方を身に着けたので本を読むときに活用しているんだけど、全ての文章に線を引きたくなる。

 ともすれば反社会的になりうるような徹底的に個人的な道徳に従おうとすることを、しかし周囲の人間に喧伝することはやはりおかしい。

語りたいという欲求には何か不健康なものがふくまれているであろう

 まだ1/3くらいだけどとりあえずここまででも読んで良かったという内容だ。

その他

 YouTubeを見ていたりゲームをすることでは自分が根本的に救われる気がしない。だから根本的には哲学をやっていくしかないとは思うんだけど、体力がないのでちょっとずつしかやっていけないんだよな。

 あとは僕が社会的に成功していれば哲学を必要とすることはないのだろうなと思った。社会的に上手くいっていないから社会的な価値基準を転倒させようという気持ちが混じっている。この動機の不純性もまた多分ニーチェの批判するところだと思うんだけど自信はない。