日記

日記です

20210206

 追い込まれれば仕方なくやるという構図を考えるに、やっぱり自分というものは坂を転がる石となんら変わらないなと思う。すごく自然現象的というか、力を受けたから方程式に則って運動が生じる姿そのものだ。結果として生じた運動を「自由意志」と呼びたい人は呼べばいいけど、僕はあまりそういう感覚はないな。


 好きなプロ野球チームなりVTuberなりなんでもいいんだけど、不祥事を起こしてまずいだろうという感じになったとしても、それですぐ好きでいることを止められるかというと全然そんなわけはない。好きでいるものを自発的に嫌うっていうのはなかなかできるわけじゃないし、そういう点にも自由意志のなさを感じたりはする。

 関連として昨日読んだプロセカのイベントストーリーを考えていて、青柳冬弥の父親の主張はある意味で「ストリート音楽を好きでいる状態を止めろ」と言えるだろう。それに対して東雲彰人が(やや慎重な形で)示した意見も結局「父親を好きでいる状態を止めろ」と言えるから、論の作り自体は同じになってしまう。どちらの意味でも自分を曲げるなんてことは簡単ではないから、それらを止揚する形へ運んでいくのは納得感があると思った。


 人生における嫌なことをどれくらい許せるのか。結局今死んでないのだから死ぬほどは嫌ではないということになる。世界が理不尽なのは本当におかしいことで、もっと強く拒絶しなければならないのではないかと思うことがときどきある。おかしい世界を許して生きてしまうからもっとおかしくなっていく面だってあるだろうに。