日記

日記です

20200811

 今日もリファクタリングなどで3時間ちょい作業。リファクタリング好きだな。なんでこんなに好きなんだろう。綺麗に整っていく感覚が気持ち良い。

YouTubeの話から価値基準の話へ

 個人的にYouTubeを見ないようにするときはTwitterも見ないようにしないとあまり意味がない。というのもよっぽど注意深く使っていない限り、ふとした瞬間に気になる動画なり配信なりの情報が流れてきてしまうから。Twitterは入ってくる情報の制御が本当に難しい。

 一瞬は気を惹かれるんだけど、冷静に考えると別に見なくても良い(自分に得はない)ものは多い。いや"得"ってなんだよという反発は常にあって娯楽を否定すればただ生きているだけになってしまうが……。

 何かを良いと思った瞬間、「その良さ、価値基準を担保するものはなに?」というカウンターが来てしまう。価値基準の価値基準は存在しない。でもどれかを決断的に採用することもできない。

 正確に言えば生きている時点ですでになんらかの価値基準を保持してはいるのだ。だからこれは思考の仕方が間違っている気がする。「その良さ、価値基準を担保するものはなに?」という相対主義を出すべきタイミングと出さない方がいいタイミングがあり、内省についての相対主義は空転するだけなのかもしれない。たとえば、世界で生きている人が自分だけになったとしたら、そこで相対主義は有効だろうか? という疑問が出てきた。でも"有効"という概念自体が価値判断を含んでいて、よくわからなくなってくる。ちょっとこれについては評価保留。

 最終的には幸福量で判断するしかない気がしてくる。その意味で僕は幸福主義とも言えるかもしれない。ナイーブな話をすれば、たとえば人体に一切害のないドラッグ、あるいは脳に電極をぶっ刺して幸福を感じる部位を刺激する(?)みたいなことが可能になった場合に、それは"良い"ことなのだと僕は判断したい。もちろん正確には幸福の定義をしなければならず、それを単純な脳内物質の測定に求めていいものかは議論の待たれるところだが。

 うーん、やっぱり「最終的には幸福量で判断するしかない」というのはトートロジーでしかないか? 幸福というのがすでに価値判断であって、幸福量がわかるならそれはもう判断ができている。つまり、やっぱり僕は僕の幸福がわからないということなのだろうな。

 幸福がわからない。自己決定感がない。ふらふらしているうちに状況が勝手に悪くなっている気がする。せめて不幸じゃない状態を目指さなければ。

ゲーム

Cytus

 レベル1の曲は3つフルコン(このゲームだとMillion Masterと呼ぶらしい)できた。一日各曲を一回やっているだけでも多少の上達を感じるのが面白いところ。微妙に判定と音が合ってない気がするのでちょっと設定をいじった方がいいかも。やり方がわからなかったが今検索してみたらわかったので明日また。

ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド

 最初のマップは一通りやり終えて四神を解放するというのが次の目的っぽくなってきた。小さい目標が次々と生えるようになってくるとどんどんやれる感じがしてくる。

 しかし戦闘は難しそうでどこかで詰んでしまう気もする。アクションとして可能な行動の選択肢が多く、身体に馴染ませるのが大変そう。移動ではロッククライミングゲームの様相も呈してきたし、知ってはいたが創意工夫が重要なゲームというのが体感として少しわかってきたかもしれない。

 ここ数年で一番楽しんだゲームを問われたら迷いなく隻狼と答えるんだけど、考えてみると隻狼はアクション自体の選択肢はあまり多くないゲームだった。忍具はあるけど基本的にはガード(弾き)と攻撃でやっていけるし、攻撃も溜めと通常くらいでバリエーションはほぼないという割り切りっぷり。このあたりが「隻狼は音ゲー」みたいに言われる理由なんだろう。

 ブレスオブザワイルドも隻狼も雑魚敵をスルーしやすいのは嬉しいところ。僕は雑魚戦ってあまり楽しいとは思えなくて、ボス戦ばかりをやっていたい。その意味では音ゲーってある意味で全部がボス戦みたいな寄り道のないゲームとも言えるわけで、それが好みになるのも当然か。

 ブレスオブザワイルドはプレイ動画とかも一切見ずにかなり上手くネタバレを回避できているので、ちゃんとやりきりたいが、難易度に負けるとどうしようもないしな〜。

漫画

 4巻から6巻まで。やっぱり共感が強い読み方をしている感覚がある。もっと言えば理想の姿でもある。自分と同じ性質を持っていて、かつ自分より上手くやっているような姿を虚構に求めているのかもしれない。自分の性質自体が悪かったのではないと思いたいのか。

 どの虚構作品を見ているときも、結局自分を探しているような感覚がある。だから根本的にキャラクターに対して萌えることはなくて、他者として好きになることなんてなくて、自分の中の半分くらいを重ね合わせる楽しみ方しかできない。

 もう作品の感想からは完全に外れていくけど、セカイ系オタクとか感傷マゾ界隈ってこういう自分を使った鑑賞をしているイメージがある。逆に「俺の嫁」オタクとかアイドルオタク、電車オタクとかは自分を重ねない鑑賞になっているイメージがあり、ここに大きな断絶を幻視したりする。この違いっていうのは結局ナルシシズムとか自己愛の有無なのかな。

 以前オタクの性質を「自己否定」に見たいということを書いたけど、なんというか本当に自己否定を結論として片付けられる場合はさっさと自分を外した虚構に没入できる気がする。自己否定なんだけど自己肯定も混ざるナルシシズムオタクが内省ぐるぐるタイプになっていくのではないか。