なんかゲームしたり漫然とプログラムを見直しているうちに一日が終わっていた。
シャニマス
『ギンコ・ビローバ』の感想をいくらか眺めていたりした。良い作品というのはどこか「まさに自分のために作られたものだ!」と感じるところがあるように思う。もちろんこれはただの錯覚なのだけど、簡単には切り捨てたくないものでもある。他人の感想を読むということは、そういう錯覚を手放すことに繋がりやすい。
孤独が強調される。それは感想を語り合う相手がいないという面でもそうだし、僕の感じ方は僕の感じ方でしかないという面でもそう。自分の読解が、なにか間違っていると感じてしまうのは寂しいことだ。確かにテクストに照らし合わせて無理のある解釈というものはあるかもしれないが、極論を言えば別にそんなことはどうだっていいことでもある。
昨日の放送についての感想でこういうものもあった。
僕自身はそこまで「現実世界に存在する社会集団と個人の力学や能力によるランク付けみたいなものを避けるためにオタク世界にいる」という感覚はないのでそれ自体に同意することはないんだけど、
オタク世界でも能力差を意識させられるのはしんどい
というのはまぁそういう気持ちもなくはないかもしれないとは思う。とはいえやはりそれは生そのものに付随してしまうことだと考えているのでどうしようもないというのが現状の感覚ではあるが。生きていて、なにか動作をすること自体が選択であり、選択の裏にはどうしても価値基準が存在する。(正確に言えば「選択を外から眺めた人間がその裏にある価値基準を想像することは理屈として可能であり続ける」という感じ)。本当の虚構に耽溺するには、やはりソーシャルな部分を本当に全て切り捨てる覚悟でやるしかない。つまりSNSやブログなんかを見るなということになってしまう。
なんかこういうことを言いたいわけじゃなかったのに。書いていくうちに内容が変わっていってしまう。最近はまた言葉は全然自分の管理下にあるものではないという感覚が強くなっている。もっと上手く使いたいのに。