日記

日記です

20190719

 とりとめもなくいろいろ考えがめぐる。

人気投票としての人命の軽重

 ○○だから損失が大きいみたいな話はどうなんだと言われたりもするけど、まぁ人の命に軽重はあるんだろうなぁとも思う。少なくとも僕の主観から見て大事な人間とそうでない人間はいるし、この主観を全人類について総和を取っていったときに大事と思われる頻度が高い人と低い人が出るのも自然だと思う。ナイーブに考えれば(人気投票になってしまうが)、全人類が一人1000点持って、各自それをこの世の人に配分する(自分を選ぶのも可)というような想定で、何点入るかが人の価値。幸福の数値化の議論でもやや思ったけど、完璧な数値化はできなくても完全に全てが平等ということもないだろうし、そういうところでなんか適当な評価基準入れてみたいよねという気持ちはある。

 僕が1000点配分するとしたらどうだろう。面倒だから自分に1000点で済ませてしまう気もするし、もうちょっと真面目に考えるなら好きな小説家とかバンドとかスポーツ選手とかを適当に見繕って配分するのかな。グループに対して点を配分する場合はどうなるんだろう。まぁ細かいところを詰め始めるとすぐ破綻してしまうので……。

 余談だけど、こういう評価システムってなにか良いアルゴリズムが決まっているんだろうか。たとえば価値の高い人が選ぶ人は価値が高いという考え方で、一度この評価を回して点が高く入った人の持ち点数を多くしてもう一度やるみたいなことはありそう。各回の試行で人が点数を配分する際の割合は不変であるとしたとき収束するんだろうか。

人権

 人気投票は嫌いだし僕なんかは全然点が入らない(今後もっと入らなくなる)タイプの人間なのだが、人権概念はそんな人命の軽重なんてものを一顧だにしない概念なので強い。こういう点から考えるとやや無知のベールに近いような気がするけど、最低を最大化ではなくて一定の保証という点が異なるか。人A,B,Cの3人について幸福量が

方式\人 A B C
(1) 1000 1000 -1000
(2) 10 10 0
(3) 1 1 1

などとなったとき、功利主義だと方式(1)が総和最大なので良いということになるが、流石にこれはひどいだろう。最小値の最大化では(3)になるが総和は最も小さい。たとえば一定保証ラインを0として定めると(2)が採用できることになってこれの方が総和が大きいぞという主張は有り得そう。

 それでもしかし人権概念はなんかあまり好きになれないな。これはやっぱり僕が恵まれた方の立場にいるからなんだろうか。自分が弱者の立場になるかもしれない~みたいなの、自殺の抵抗感を小さくすることで解決したくなりがち。やはり自殺というカードを気軽に切れる準備をしていくことがかなり大事なのではないかと思う。幸福度がマイナスになった瞬間「それでは!」っつって自殺できるような状況が構築できているといいなぁ。

暴力

 人権(社会福祉)が要請される理由の一つとして、弱者を虐げていると反発が強まって単に治安が悪くなるからというものがあるはず。暴力と暴力のバランスゲームの末に人権という概念がひねり出されたように思える。自由資本主義みたいにナイーブすぎる考え方かもしれないが。神の見えざる拳。

結局世界征服したいなぁ

 「この世のすべての不利益は当人の能力不足」だなんて本当に信じているわけじゃないけど、そう思わないとつらすぎるのではないかと思うことはある。この世に不幸があることを、仕方ないことだと諦めたくはない。以前どこかで「将来の夢は世界征服」と言ったけど、全てを制御化に置きたいという気持ちはいまだに消えない。

 世界征服に向けて一番可能性がありそうなのが科学技術を学ぶことだと思っていて、そういう意味では喧嘩に勝つために格闘技をやるというのと構造は同じに思える。腕っぷしを強くしても目の前の人間を倒せるだけだが、科学技術には(現実的に僕の能力で実現可能かはともかく)もっと強大な暴力の可能性があると感じている。科学技術で社会を良くしようとは思わないな。自分の思い通りにはしたい。

 「自分の思い通り」がどんなものであるかを考えると、どちらかといえば不幸をなくすことに重点があって幸福を増やすことには比較的興味がないと感じる。+1000の幸福があっても-1の不幸があればダメだし、逆に不幸がないなら幸福が0でもよい。だから最終的な結末が人類(生物)(宇宙)(世界)の滅亡であっても良い。存在者がいなければ不幸は0だ(というか不幸という概念が成立しないのでは)。教育・宗教・道徳・人権などでは不幸が0になると信じられない。もっと圧倒的な暴力でなければ。