コンピュータ将棋について結構作業した。
本
- 作者:永井 均
- 発売日: 2014/09/09
- メディア: 新書
昨日からこれを読んでいる。まだ読み途中。
第39話
僕が学くんでなくなって例えば悟じいさんになってしまう場合とか、そういうことを考えるんだけど、こういうことは考えられないこと
これまさに本質では。
神が存在すれば、そこだけ二回やったことを見ているだろうが、世界の中にいる者は誰もそれを経験できない。それでも実は二回だということに何か意味があるだろうか
すごい。
学:世界は僕から開けていたのに、悟じいさんから開けた世界に変わるよ! 哲:その変化を経験できる主体は存在しない
そうなんだよな。そこが存在しないなんて感覚的にあり得るか? でも実際はそうなんだろう。
第40話
やっぱり、神様がいなきゃ駄目か! なんだか急に神様がいるような気がしてきた…。
僕の感覚もこれに近いと思っている。
第43話
つまり、悟じいさんは鎮痛剤を飲むことを勧めたのではなく、逆に、われわれがいつも飲んでいる覚醒剤を飲むのをやめるように勧めたのかもしれないだろう
こういうキャッチーなたとえばかりに飛びついてしまうの読書態度として良くない気がするが、やはり面白かったので。
第46話
二一世紀の日本人である僕がこれから十六世紀のドイツ人になったらと考えると、僕の移動が今の移動を含むことになるけど、もともと十六世紀の人だったらと考えると、僕の移動もないから今の移動もない
タイムリープものとか、あるいは異世界転生でもこういう「今」の移動というのは気になる。主人公の「今」が引き継がれるような想定をできるということは、やはり認識の枠組みとして我々は他者にも「今」という観念があることを認めているわけだよな。それこそがコミュニケーションの前提なのかもしれなくて、でも特別な「今」は僕にとってだけ存在する。そういう二重性が問題になっているのだろう。
第47話
移動を語るための基盤自体の移動を考えてしまっているから、実は考えることさえできない
この言い方がかなり核心をついているのではないか。
本質的な図。たとえばよくある入れ替わり、有名なのだと「君の名は」とかだと、心と身体が分離していて第1図の中身が入れ替わるような形になる。しかし今回取り上げているのは第2図のような形が第3図へと転換するとはどういうことか? という問題である。第2図では逆三角形のやつに三つの関係がある。身体と心、身体とそれがまさに「僕」の身体であるということの関係、そして心と「僕」の心であることの関係。ここで結局「身体-心-僕」という結びつきしかありえない。
心というものは実は特在的なあり方を並在的な世界像にうまく埋め込むために発明されたものだ
これか? これな気がする。でもまだはっきりとわからない……。なんか生物学的な? 進化論的な? 解釈と混ぜてしまいそうになるのだけど、それが正しいことなのかだろうか。
第49話
たとえば小説の中の登場人物がデカルトのように考えて、「私は今確かに思っている、だから私は間違いなく存在している!」と言ったら、どうなる? 哲:そいつがそう思ったなら、そいつは間違いなく存在する。ただし、もちろんそいつにとっては、だが。学:「そいつにとっては」だとしても、「そいつ」なんてそもそも存在していないのに? 哲:いや、その小説の中では、そいつは存在する。
このあたりすごく迫力がある。
第50話
しかし、そもそもデカルトは他人ではないか! なぜか多くのデカルト解釈者はそこを問題にしないが、真の哲学的問題は、当のデカルト自身が我々読者にとっては実は他人であって、私ではないということにあるのだ。
第55話あたりからもうついていけない。眠いのもあって中断。
動画
これ書いてるの23時前だけど、卯月コウがシャニマスやるっぽくて、見たいけど見たくね〜〜〜〜ってなってる。というかアイマスPに燃やされるのを警戒しまくってるのが笑える。やるなら浅倉透が一番それっぽいか? という気にならなくもないが、さてどうなるか。