今日は全然集中力が出なかった。というかやることを見失っているのでは? どうしよう……。
他人の日記
接続を断つことについて、なんとなく正しそうで、でも実はダサいんじゃないかという気持ちがある。なんというか、実際に断つことは良いが「断つぞ!」と宣言してしまうことはダサく、自然と離れられていなければならないと思ってしまう。そんなことはないです。実行できたことだけで評価しましょう。実行することに有益ならば宣言もいくらでもしましょう。
動画
昨日は結局3時過ぎまでこれを見ていた。まさかガシャ回すだけで終わってしまうとは……。ガシャゲーの邪悪性が明らかになる。
三峰が「野球」呼ばわりされているのは面白かった。僕はやや同担拒否気味の性格なので三峰が好かれているよりもこういう方が安心してしまうね。
オタクの語り。「このへん非常に……同人誌ですね」で笑ってしまった。
プロデューサーの名前が「(登録名)P」にならないの、確かに言われてみればそうだな。部分的にプロデューサーの姿が写るカードも多いし、プレイヤーではなくキャラクターという姿勢が強そう?
しかしこうしてじっくりコミュを見ると白瀬咲夜かなり怖いな。三峰のファン感謝祭で大爆発するのは見たわけだけど、前フリをじっとりやっている。
本
- 作者:永井 均
- 発売日: 2014/09/09
- メディア: 新書
読み切った。昨日みたいに一度引用マシマシで書いたけど、全部消して感想書き直し。
最後の展開は好きだった。哲学を十分にしてなお仏教に回収されてしまいかねない危うい位置にあることの自覚。そういうものが感じられた。
僕の持つ問題意識としては「私の存在」よりも「道徳の基礎づけはいかにして可能か」の方が大きいが、やはり第77話などで触れられていたように、これらは同じ問題なのだろう。そして道徳の基礎というのは「本質的に」この世界の内部には存在し得ないということだと思う。僕はなんどもこの日記で「なにもわからない」ということを書いてきたが、きっとわかるようになる日が来ることはない。それが原理的な姿なんだ。
そういった事実を認めた上で、では宗教に流れるかというと、今のところはそういう気にもならない。一方で単純に刹那的快楽主義に落ちることもできないとは思う。確かに「基礎づけ不可能な道徳」に対して「今感じる幸福感」は実在的なものかもしれないが、そういった存在様式のレイヤでのみ生きることに対する抵抗として幸福主義には抗いたいような気がする。
そして最後に言及したいのは孤独に対する恐怖。これが上と同じように、幸福感が反転しただけの第1レイヤでの感覚なのかそうでないのかは判断つかないけど、でもこの本がこうして生まれたということにはやっぱり注目したくなる。哲学者が、個人の内面だけで哲学するのにとどまらず、本を出版することの意味を僕は感じたい。あとがきでは次のように言っていたのだから……。
哲学を探求するのは自分のためだが、書いて公表するのは、この世界に散らばっている友人たちにあるメッセージを送り、かつ潜在的な友人を顕在的な友人に育て上げるための仕事である