今日も研究室に行かなかった。2日連続行かなかったのは半年ぶりとかそんな感じかもしれない。休むのは怖い。二度と行く気がなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう。明日からまたやれれば良いが。
音楽
最初はちょっと違うかなぁと思っていたFear, and Loathing in Las Vegasの『New Sunrise』も何回か聴くうちに好きになってきた。正直どんな音楽もある程度の回数聴けば自動的に好きになるのではとか思ってしまうが、そもそも何回か聴こうと思う時点で好きなのではという意見もある。にしてもなんでこんなわかりづらいバンド名にしているんだろう。a crowd of rebellionもなかなかだとは思うけど。
小説
- 作者: 円居挽
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/10/09
- メディア: Kindle版
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どわー! やった、円居挽やった! 素晴らしい!
これね、あれなんですよ。展開があれであれ。城平京のあれ。こういうの本当に好きだね。出生の呪いと運命を体現したような敵。
良かった。大変良かった。2,3巻あたりはどうなることかと思っていたけど、締めは流石だった。実践的にここまでの描写が十分であったかは再考するとちょっと抜けはあったりするかもしれないけど、初読でここまで勢い出せたらそれは満点なんですね。
ほんの少し、ほんの少しだけあと情感があったらなぁとは思わないでもないけど、それは望みすぎか。
客観的に見て名作だかどうかはわからないしあまり興味もないけど、僕の中では傑作。
その他
面白かった本を読んだときはTwitterやめなけりゃ良かったなぁと思ってしまうのだが、たとえば感想を呟いてふぁぼられたところで「それがなに?」と言えばそうでもあるしどっちかというと最近そういう精神性になりつつはある。将棋観た感想とかプロ野球観た感想とかも、今までは他人の反応が気になっていたが、それこそ治すべき点な気がしてインターネットから離れることが良いように思えている。しかしこうやって意味があると判断するラインを上げていくと人生すべてに意味がなくなってしまう気がするのもそう。他人の反応を気にする/共感することには意味がないが、しかし○○には意味があると言えるような何かが存在するのかわからない。共感やコミュニケーションが全く無い状況で生きていけるかというのが最近のテーマであり、理想的には肯定したいが現実的にはそんなに上手くいっている気もしない。そんな生活をしていたら精神がおかしくなってしまうのではないかという疑惑もある。
一つ思うこととして手軽なことって最終的には悪になってしまうのではないかと思っている。一年前にも似たことを言っていた。
ワンクリックでリツイートができる、とかそういうところに邪悪性が生まれてしまうのかもしれないと思うところもあって、インターネットの手軽さ自体が悪の根源だったら悲しい。
少なくとも手軽さは大衆を呼ぶための必要条件だとは言える気がしていて、大衆はきついのでその意味で手軽さが悪いことなのかもしれない。はてなブログで通知が飛んでしまうのが嫌だと思うのは、自分の文章に自信が持ててないからであって、そういう手抜きの文章を書くのをやめるべきなのではということもやや考えている。とにかく手軽さ、雑さと闘っていかなければいけないのでは。精魂込めた何かを書き/作り、適切な場で発表する。僕らのすべきことってそれなのではないか。だとすればTwitterも日記も無価値、どころか悪いことですらあると言えるかもしれない。自信を持って宣伝できる文章のみを書く。それ以外は全部やめる。そういう考え方だってあると思う。
適切な宣伝というのもやっぱり大事になるのかなというのが思うところ。宣伝というか、見つけるべき人が見つけられる場所にあること、有り体に言えば検索で引っかかりやすいことか。別に大衆に知らしめる必要はないけど、必要な人に行き渡る努力もすることは重要なのかもしれない。そしてそれをやるだけの価値があるものを書かないといけない。それは共感を求めることとは違うのか? きっと共感にも度合いみたいなものがあるはずで、1の共感を100集めるのと100の共感を1集めるのでは後者の方が価値が高いという判断。そうそれは価値判断なのだ。まぁそれにしたって人が多いのは発見しやすさという点で良いことになるか。うーん、大衆……。