日記

日記です

20190729

 2回目。やっぱりこの本が評論系の中では一番好きかな。まぁでも結局僕はゼロ年代当事者ではないのだなぁという気持ちも強くなる。他の人の感想を読んでいて、特に意図的に「触れられなかった」ものについてはよくわからないというのはそうかもしれないと思った。恣意的な切り出しであったとしても気づくことができない。

第1章 エヴァ周りについて

言ってみれば『エヴァ』は、終盤及び劇場版で、唐突に「究極のオタク向けアニメ」から「オタクの文学」へと変化したのである

エヴァ』は前半と後半で、まったく異なる顔を持つ作品であり、しかも、後半といえば、ロボットアニメであるにもかかわらず、主人公がロボットにも乗らず自問自答しているだけ、という作品である。

 エヴァが世界観重視オタクと自意識重視オタクが対立する火種になったという感じの解釈が面白い。もともとオタクという言葉が細かいネタによく気づくような作品受容態度を取る人間という感じで定義するのは自然で、そういう設定に拘る人が自意識的な問題意識を持った作品とは相容れないだろうというのはわかる。最初はオタク向けに作っておいて途中から置き去りにするなんてひどい話だなぁ。

 ある意味でセカイ系はオタクの文学という構図めちゃくちゃ笑えるな。やっぱりその圧倒的自意識さこそがセカイ系の根幹にあるものだと思う。オタクの文学、人はやっぱり文学に弱いのだ。

 ブギーポップ、読んだはずなんだけど全然印象に残っていないんだよな……。ノベルゲームも全然わからん。背景が本当にないという気持ちが強くなる。

第2章 エヴァ直後におけるセカイ系

 細かい設定に拘るオタクは終わり、役割と自意識による文学性に注目するオタクへ。自意識の描写なんて古い文学からやられていたことで、ある意味では後者の方が正統はあるのかもしれない。

つまり『エヴァ』以前、オタクたちの間では、物語から世界観を読み取る「物語」消費をはじめ、岡田斗司夫の言う暗号を読み解く態度など、作品受容の態度がきわめて奇形化していた

 「きわめて奇形化」! 強い宣言だ。

エヴァ』がもたらした最大のパラダイム・シフトはオタク文化における自意識の獲得

 ウケる。世界設定が細かく決まっていて描写されるのはただその一部という態度と、描写されたものに自意識が詰まっているだろうという態度。昔は後者が主流で、「オタク」が立ち上ってきたときに前者が強くなり、しかしエヴァによって再び後者が強くなったという感じの流れ。まぁこれはちょっと恣意的に流れを見せているだけかもしれなくて、ずっとどっちもあるだろうとは思う。もちろん時代によってどっちの勢いが良いということはあるのかもしれないが。現代だと、(特に)アニメに対する「考察」っていう言い方をするような文章は世界観消費に近いよなと思う。僕はどちらかといえば自意識重視人間なので、「考察」それ自体はあまり面白いことだとは思えない。

 ある意味(主人公以外の?)キャラクターに写実性、具体的かつ重厚な背景がなくなって、役割としての意味合いが強くなったということでもあるとは思う。エヴァの敵(使徒)なんてもろに目的不明の抽象物なのだから。

ほしのこえ』は「ふたりの遠距離恋愛」という主題のためだけに、ありとあらゆる要素が配置され、それ以外は潔く排除されているのである

 こういうことですね。

 イリヤの空に対して

自身の実存的な問題意識を作品に込めるというよりも、ウェルメイドな物語を読者に提供

という評価をしているのすごいな。作品のオチとしても、そこにやはり冷静な視点が明らかにあるんだよな。そうでなければあのオチにはならない。単純にセカイか君かという話をやったわけではないんだ。

 あー、しかしミステリにおけるセカイ系として西尾維新佐藤友哉舞城王太郎の名前を出されると、う〜〜〜むってなるな。それぞれ「デビュー作だけ好き」「電子化してくれないので読めない」「それなりに読んだけどそこまで印象良くない」という感じで……。孫引きだけど

虚数の青春の悲惨さに拮抗しそれを描くためには、ほかのどんな小説の手法にもまして完璧な虚構性をあらかじめ保持しているジャンルである「本格ミステリ」を自覚的に選択することが必要だった

 これはマジでそうなんですね。マジでそうなんです。だからミステリなんです。ミステリの虚構性が都合よく結びついたということであってやっぱりミステリそのものが好きなわけではないんです。ごめんなさい。

 そしてセカイ系生みの親、ぷるにえ氏によってスパイラルがセカイ系認定される。前島賢はサラッと流すけど、当然僕にとってはかなり重要なポイントで、独白が多いわけではない(と思う)からあれなんだけどやっぱりセカイ系的ではあると思う。やはり僕は自意識は好きだけど独白はそんなに好きではないのだろう。自意識の描写をミステリなどの要素を使って上手くやってほしいという立場なんだよね。

 ここまででの(原義)セカイ系の定義がなされる。

新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、90年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群。その特徴のひとつとして作中登場人物の独白に『世界』という単語が頻出することから、このように命名された。命名者はウェブサイト『ぷるにえブックマーク』の管理人、ぷるにえ

 個人的に納得度は高い。がこの定義だとやはりスパイラルがやや怪しくなる。ヴィークルエンドもきつそう。僕にとってあまり「セカイ」が主題になってないという雰囲気を感じる。

第3章 変遷するセカイ系

 (終盤の)エヴァっぽいという曖昧な意味合いで始まったセカイ系という言葉は定義を保つことなく変化する。特に主流になるのは「ぼくときみの関係性が中間項を経ず〜」みたいなやつね。この辺はまぁネットで生まれた定義も定まってないような言葉はグニャグニャしていくのも当然だろうなぁという感じであまり言うこともないんだけど、セカイ系の性質として自己言及性に着目するのは面白いと思った。それは新しいあり方だからというのに過ぎないのか。ある意味での覚めた目線が導入されているからか。

 ここらでまんが・アニメ的リアリズムの話が入ってきて議論がややこしくなる。写実ではなく、アニメ世界を描写する感覚。なんとなく言わんとしていることはわからないでもない気はするんだけど、でもそれをリアリズムという言い方で指し示すべきなのかはわからない。

 登場人物が虚構を相対化できる自意識を持っていることで読者の共感を誘いながら、しかしそれ自身がやはり虚構であるという存在の仕方。や、これだよな。やはり重要な点がそこにある。ドラクエは中間項を挟まないけどセカイ系ではない。

なぜ自分たちは、ゲーム、マンガ、アニメ、ライトノベルといった虚構の世界の人物に、巨大ロボットや宇宙戦争や密室殺人などという物語に、率直に自己を重ね合わせ、感動しているのか?

 本質的な問いです。

第4章 前島賢の見方

セカイ系は、批判をすでに織り込んだ形で読者に受容されている

オタクたちの自己反省という欲望

 これあまりにも本質的。セカイ系には必然的にこういうねじれが付随している。自己批判で気持ちよくなりたがるようなところがあるよね。そしてさらに自己批判で気持ちよくなる自分をさらに批判して、しかしそれで気持ちよくなる部分に邪悪さを見出して……、というループが延々と続くだけ。

いくら批判されようと、人間はそう簡単に自意識を捨てることも、自己正当化をやめることも、自己反省をやめることもできない

 腹抱えて笑ってしまう。自己批判ばかりの気持ち悪いオタクがしかしずっとそんなことをし続けるのはある意味でこういうことだからなんですよね。宇野常寛とかはオタク的自己反省を批判するけど、やっぱりそれすらも自己批判のサイクルに回収してしまってどこまでも気持ち悪い自己批判の連鎖を続けていこうなという気持ちになる。

セカイ系は、商売に向かない

 最終的に言うことがそれかいみたいな。まぁ確かにセカイ系的なネタで長い巻数続けていくのは難しそうに思える。そういう商業主義的な部分もあって、セカイ系のブームはやはり終わったのだろう。完全に死に絶えることもないだろうけど、やはりセカイ系という言葉に頼るのは辞めた方が良さそうだ。

自分なりの結論

 セカイ系が自分の好みをかすめているとは思う。一方で好みのど真ん中というわけでもない。内省的なのは好きだが独白ばかりで進められると好みではない。セカイの枠組みあるいは関係性に仕掛けが打てると面白いと思うが、真正面から関係性のみをやられるとどうだろうかと思う。虚構性を強く打ち出し派手にやるのは好みだし、だいたいジュブナイル的自意識の話になるのも良い。ねじれた自己批判ものになってほしくて、ぼくら対セカイというだけの構図で終わってほしくない。そんなところかなぁ。

最後に『天気の子』の話 僕はねじれた自己批判的内省が好きで、だからこそ天気の子では「あ、お前自己批判で気持ちよくなるのやめやがったな!」みたいな気持ちになる。自己肯定感が高すぎないか? という感想の肝はそこにある。彼らは自分たちの選択を肯定してしまって、それは「現実的に」良い在り方ではあると思うんだけどしかしお前たちは虚構だろうという気分になる。肯定するなら根本的にセカイを打ち壊す強さであってほしかった。セカイと君の両方救う圧倒的力強さか、君を犠牲にセカイを救う気持ち悪さか、僕はそのどちらかが好きだった。この展開をまだ上手く受容することができていない。映像のパワーが必要だったのかもしれない。

秒速からして「大丈夫」は一貫しているのだから、結局新海誠の立場はそっちなのかなぁという気もする。あれは呪いの話として解釈しない方が新海誠的には一貫性が出る。気が合わない、ということになってしまうのかな。それでもこうやって何度も言及してしまう時点で、僕にとって何かしら特別なクリエイターであることは確かなんだけど。