日記

日記です

20190509

 J・D・サリンジャー(村上春樹訳)『フラニーとズーイ』を読んだ。選手権へ行き来する電車内では鈴木武樹訳のを読んでいたんだけど、これが読みにくいったらありゃしないという感じの翻訳だった。電子書籍ではこの訳しかなかったのでこれを買ったわけだが、Wikipediaを見たらこれは1969年の訳らしいし、流石に厳しかった。弊学の図書館を調べてみたところ村上春樹訳だけあったのでそこで借りて読んだという次第。

 さて内容。感想の軸は「わからない」だと思う。なにがわからないのか具体的に考えてみると、まず「エゴ」に対する嫌悪感というものがピンとこない。そもそもエゴという言葉がよくわかっていないのかもしれない。特に他人のエゴに辟易とするような体験は、僕の中にはないものだ。僕がたいていいろいろ考えているのは自分自身の性格の悪さ、考え方の筋の悪さ、能力の低さなどであって、この1番目と2番目には「エゴ」に突き動かされる嫌悪感に近いものはあるのかもしれないけど、それと他人のエゴがどうのこうのとは結びつかない。

 いやこれはカッコつけかなぁ。インターネットを見ていると時々訪れる「人間ダメでは」というあれだろうか。でもそれとはまた少し違う気もする。もっとひと目みた限りでは良さそう人たちの中にいながら、その良さそうな人たちも実はエゴの塊だとわかってしまうという流れ自体が厭世的になる原因だとも思えるし、単に人間のダメさが目に余るという話ではないだろう。やはり僕はまだ「良い人は良いのだ」と(無邪気に?)信じているような節があるのかもしれない。

 宗教的な部分に関しては、神の内面にどうやって構築するかという話(と解釈した)には多少興味を惹かれる。それが結局精神的な報酬を求めるものに終始してはいけないという批判もなされており、本質的な指摘だと感じた。しかし最終的な解決はよくわからず腑に落ちなかった。現実からは像を逸しつつ相手の中に神的ななにかを見出すという感じだろうか。人間性レベルの肯定、否定ではなくて多少メタな立ち位置を目指すというべきか……。いややっぱりよくわからない。

 キャラクターが会話するだけの小説、いやまともに会話が成立してすらいないかもしれない小説。しかしこういうのも面白いとは思うものだ。サリンジャーサリンジャーね。もっと電子化されていれば読む機会もあるだろうけど。