日記

日記です

20210502

 なんだかまだ疲れはあって午前中は断続的にずっと寝ていた。午後は小説読んだりゲームしたり。

 最初起きたとき、とても悲しい夢を見て、泣きながら起きた。

 魔法使いになる夢を見た。中学校かな、定期的にクラスの中で一人だけ魔法使いになる。いろいろなことができる、でもそれは悲しい使い方しかできない。魔法使いが生じて、わりと早い段階で僕だとバレた。

 魔法使いは退治されることが決まっていて、クラスにはそのための勇者がいる。

 僕は魔法を使って、僕が気になることについて議論する場所を暴力的に構成して、カードゲームで決着を付けることにして、一人目から普通に負けて勇者に介錯してもらった。

 とても悲しい夢だった。自分が悪になって、破滅しかない状況になって、最後残された時間を、他人に迷惑かけながら少しだけ自分のやりたいことをするために使わせてもらって。自殺できないから最後は勇者に殺されるようお願いする形になって。

 これしかなかった。議論の題材になりたかった。深く考えの対象にしてほしかった。そして少しだけ遊びたかった。そんな素朴なことが僕のやりたいことだった。

小説

息吹

息吹

 前作より自由意志に関する話が多くて好みだった。『商人と錬金術師の門』と『不安は自由のめまい』あたりの、ある程度ドライに見ている中で、しかし絶望するわけじゃない語り方が良い(後者はやや希望的すぎるきらいもあるように感じたが)。

 あと僕は認知の歪み的ホラーがわりと好きなので『偽りのない事実、偽りのない気持ち』の転換も面白く感じられた。自分の中で自分の記憶が捏造されていくのは最近体験したことでもあるので。そういうところをテーマにしつつ、2つの話を並置して結論が偏りすぎないようにするバランス感覚もね。

 『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』と関連して人工知能の権利みたいなものはちょっと考えるところであり、自分の問題に引きつけて言語化すると「十分に人間らしい人工知能に対してどこまで気を遣わなければならないか?」という問いだと思っている。

 僕が対人関係を面倒臭がる理由の一つとして、相手に不愉快な思いをさせないよう気を遣わなければならないから、というものがある。そんな神経を使うくらいなら一人遊びをしたい。読書は他人を傷つけない。ゲームは他人を傷つけない。では発展して人工知能と遊ぶことはどうか? というのはいずれ絶対問題になってしまうだろう。

 楽しさを求めると人工知能の振る舞いはある程度人間に近いものになっていくと予想するが、僕は唯物論を取りたいので、実際の振る舞いやニューラルネットワークなどの処理形式が十分であればそこに意識があると認めざるを得ない。そうすると意識ある主体を不快にさせるのはやはりおかしいことに思える。十分に人間に近い人工知能には相応の気を使って振る舞わなければならないと思う。

 やっぱり「人間らしい」というのが相当難しいところで、汎用人工知能の振る舞いのレベルは人間より遥かに高性能であるか、ペット・おもちゃ程度であるかのどちらかじゃないといけないのかもしれない。古今東西人工知能(ロボットもの)の創作はたくさんあるが、僕が違和感を指摘したいのは「人工知能が意識を持つなんておかしい」ではなくて、「人工知能が人間程度の意識レベルにとどまっているのはおかしい」の方だと思う。