昨夜、唐突に「電子書籍購入ボタンを押すと……楽しい!」状態になってしまい17冊ほどラノベなりなんなりを買ってしまった。また今日は諸事情で研究室が使えないということもあり、ずっと寝ころびながら本を読む日に。
- 作者: 二丸修一,しぐれうい
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2019/06/08
- メディア: 文庫
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文体とか全然好みじゃないのに話の筋で持っていかれるの悔しーと思いながら面白く読んだ。いやまぁ途中でそっちも明かす構成はそりゃこのネタで考えていればそういう構成にするよな。オチも確かにそういう風にそれば対称性が出て綺麗というのもそうで、納得するやらにゃっぱり悔しさがあるやらで複雑な気持ちになった。
- 作者: 柾木政宗
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2018/11/28
- メディア: 文庫
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うーむ、文体が根本的に好みじゃない。もっと言えば、文章が下手というか間の取り方が妙というか……。
最近、文体に対して感性が敏感になっている気がする。それは良い方向にはあまり作用しなくて、苦手なものにぐえーとなる方がおおいわけだけど。
- 作者: 竹宮ゆゆこ,ふゆの春秋
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/08/28
- メディア: 文庫
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良作だった。竹宮ゆゆことはテーマ的な部分が合わないなと思っていたけど、表現形式は好みな方ではあったし、これはテーマが少しだけかすった。だからとても面白かった。
部分的にはネガティブハッピー・チェーンソーエッヂに近いところを感じた。「生きている俺が羨ましいだろう!」って声が聞こえてこないか。テーマ的な重なりではジュブナイル全開のネガティブハッピー・チェーンソーエッヂに比べてこっちだとより罪と生に焦点があてられた形にはなっているけれども。罪を抱えて、ぼろぼろに傷ついて、それでもなんで生きているんだろうね。はっきりとした一般化なんてできなくて、事例を(特に物語的な事例を)集めることしかできないのではないかと思う。なにをしたところで救われるかどうかなんて運次第でしかないというのが今の感触ではある。
主張的には僕は反発しなければならないのかなとも思った。世界で一人ぼっちになったって絶対笑っていてやるんだって、今は考えているから。さらに少しだけ意地悪いことを言うなら、側溝にはまるなんて言ったってもともと強者だからなんとか立て直せるというところはあるんだろう。「綺麗な痛み」のように見えなくもなくて、もっと本当にどうしようもなくなってその先がなくなってしまうということもきっとある話なんだろな。いろいろな意味で僕がこういうこと言うのもどうかとは思うけど。
上と比較してというところはあるけど、竹宮ゆゆこはやっぱり文章上手いなーと冒頭の部分でもう思った。修辞が上手いとか語彙が豊かとかそういう点よりも、やっぱり何をどれくらいの量描くかという選択こそが重要なんだと思う。
- 作者: 麻宮楓,しぐれうい
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2018/07/10
- メディア: 文庫
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うーん、もうちょっと設定の活かし方、キャラクターの活かし方があったのではないかと思わないでもない。
- 作者: 早坂吝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2018/05/27
- メディア: 文庫
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こんなタイトルを、しかも早坂吝が書いてるなら読むしかないじゃんというやつ。一応僕もデップラについては多少勉強している人間なので、適当なこと抜かしてたらただじゃおかんぞ! という気持ちで読み始めたが、でぃ~ぷら~にんぐの名前を使う必然性が特にない内容だった。別にこれなら普通のSFとしてやった方が……という気もするが、微妙に人工知能分野の問題点(フレーム問題、記号接地問題、中国人の部屋)なども参照しているからそうした方が良かったのか。しかしこれそういう分野に詳しくない人にとっては面白いのかなぁ。僕はあんまりと思ったが。フレーム問題から後期クイーン問題に飛ぶところは愉快で、ミステリ作家ならここをもっと掘っていった方が面白かったんじゃないかという次第。
あとは人工知能の人格的同一性に対する素朴な考え方があるっぽいのが気になった。デップラの、特に記憶モジュールがないものだとただ単語の確率分布系列を吐き出すだけだからそこは課題になっているはず(僕も自然言語処理は専門ではないけど)。自分が何を言ったか、他人が何を言ったかというのを記憶できないといけないし、自他のメンタルモデルのようなものを考えないとダメだろうし、僕は今のニューラルネットワークによる自然言語処理(特に単純なエンコーダ・デコーダ方式)にはかなり違和感がある。
自分で自分好みのチャットボットを作るということはいつかやってみたいけど、もっと言語獲得よりのところからやっていかないと自分が満足するものができるとは思えない。人間らしく話す(人間に近い確率で単語選択をする)だけではなくて、通時的同一性を認識している(ような振る舞いを示す)ものじゃないと会話しててもすぐ飽きてしまうんじゃないか。記憶モジュールを導入する仕組みも考えられてはいるけれど、デップラって基本的にはただの写像なので、その精度が上がるだけでは同一性なんてものは出てこない気がしている。中国人の部屋も写像だけではだめだろうという問題意識なので同根な問題ではあるのかな。
別の話題としては、この本でも最後の方にちらっとそれっぽい考えが書かれていたけど、僕はやっぱり「言葉とは効用」だと思う。その言語を発することにより生じた効用こそが重要なのであって、それが同じなら発された記号列自体に意味はないと考えている。つまり人を慰める文章というのは実際に人を慰める効用を持つから人を慰めるという意味を持つのであるというような考え方。しかしこれも言語現象の一側面しか見ていなさそうだなぁと思った。
たぶん僕は強化学習的な考え方に寄っているんだろうなという気はする。言語獲得・運用の問題も根本的には強化学習のように解かれなければならないと思っているのは考えが偏りすぎだろうか。僕を喜ばせるという報酬を最大化するように言語という行動を最適に選択するエージェントという形でしか考えられない。でもそれだけではちゃんと学習はできなさそうとも思う。浅い考えに過ぎないですね。