日記

日記です

20200825

 2時間弱作業。夕方には散歩。散歩をすると体調が悪くなる気がするが、やっぱり水筒を持っていかないとダメだな。

小説

 昨日は読み終わったのが24時前ギリギリだったのもあり、書ききれなかったところもあったので再度書いていく。

 やっぱり第一部がとても好きだった。相互不理解の中での優しさと協調というのは、どれだけお題目を唱えていてもそれだけでは"完全"にならない。このように具体的に示されねばならないものというのもあるのだ。

 個人に対して本当に個人という形で向き合うことができるならば、もう相互不理解なんてものは大した問題ではないのかもしれない。それこそが僕の考える愛そのものだ。愛は実践である。

 しかしこういうまとめ方自体がこの作品の批判するところでもあった。言葉にするときに抜け落ちてしまうものがあるから小説家は物語で示そうとするのだ。それは必然的な形式で、抽象的なテーマに隷属する具体的な物語なんて風に考えていたところがあったことについては反省したい。

 評論家は、哲学者は愛を語れるか? もちろん、「評論家の語りが愛の実践である」ことは可能であると思うが、そうではなくて書き手も読み手も離れて評論家の書いた文章・テクストそのものだけが愛の正当な記述になり得るかというと、僕は一気に自信をなくしてしまった。


 あまりにも見事なコミュニケーションが描かれているので、「自分もやってみたい!」という気分にもなってしまうのだけど、これはプロスポーツを見て憧れるのと同じで自分では全く同じことなんて再現できないということは覚えておいた方が良さそう。

 物語から教訓とか自分の今後によって有用なものを受け取ろうとせず、本当に虚構世界へ一時的に逃亡するかのような楽しみ方について考えている。そうすることは、実は自分にとって大きな転換なのかもしれない。


 この日記を「打ちのめされた」で検索すると4つの記事が出てきて、内容を見ると

というラインナップになっていて、なるほど、性格が露骨に反映されているな、という印象を受ける。

 AGCは置いておいて、上記3作品(河野裕は『いなくなれ、群青』の方が好きかも)+『スパイラル〜推理の絆〜』、『ヴィークルエンド』が自分にとって現状のAll Time Best 5と言えそう。「好きな作品を5作挙げよ」と言われたとき(そんな機会ないだろうが)パッと答えられそうなのは、まぁ良いか悪いかで言えばやや良い寄りのことなんじゃないか。

 10作と言われるとやや迷ってしまうところはあって、なんとなく同一作者からは一作品のみという制約を課しているがそれを無視するかどうかで変わりそうな気もする。被りありだと城平京城平京そして城平京という感じになりそうだし、被りなしだとなんか少し納得感のない並びになってしまいそう。もっと読む数を増やしていきたいですね。