日記

日記です

20190606

 なにか超常的な力によって食事とか金銭とか健康の問題が無視できるとすると、家から一歩も出ない生活というのは一つの理想になる。インターネット回線さえ繋がっていれば娯楽的な意味で全く問題なく過ごせると思う。ここでの「問題なく」というのはつまり押すと痛みなく死ねるボタンが手元にあった場合にもそれを押さずに数十年過ごすことができるという意味合いだ。実際やってみないとわからないところはあるが、多分大丈夫なんじゃないかと思っている。

 しかしその生活に「情報の発信はいかなる手段においても禁止される」という制約が加わるとどうだろうかということを考える。他人の作ったもの、書いたものは電子書籍も含めて自由に見れる。一方でこういう日記も公開することはできず、Twitterもアカウント作ることだけは許されてもツイートはおろかフォローやふぁぼも禁止、その他あらゆる情報発信手段を禁じられたとき、それでも問題なく過ごせるだろうか。この制約が入っただけで過ごせなくなるならそれは悲しいことだと思う。

 いろんな段階の制約を考える。「情報の発信は許されるがそれに対する反応が一切見られない」とかはどうだろうか。公開はできる。ただそれに対する反応があるのかどうかすらわからないという状況。しかしこれは発信そのものが禁じられている状態とは本質的に違うんじゃないかと思う。きっと誰かに届いているんじゃないかと、わからないけど信じることは十分希望になりえる気がする。これは一つ上の条件で絶望してしまうことと整合性が取れているのだろうか。

 反応を禁じられる場合には変種も考えられる。反応というのもいくらかありえて、内容的な反応(コメント・リプライとか)だけは見られず数値的な反応(アクセス数・ふぁあ数)だけは見れる状況だとか、あるいはその逆とか。どの要素が欠けると自分は絶望してしまうのか、それを考えることは少し怖い。