日記

日記です

1007

アニメ

 『クズの本懐』を観た。うーん、これはちょっと微妙だったかな。キャラクターと話が多すぎてまとめきれてないって感じだったのかなぁ。なんか終わり方にカタルシスがない感じで……。

小説

 瀬川コウ『君と放課後リスタート』を読んだ。1回目。うーん、これも微妙だったかな。題材的にはなんか上手いことやれば面白くなりそうな雰囲気もあったけど、文章も魅力的ではなかったしあまり惹かれない。続き物みたいだけど、この先はいいかなぁ。

 河野裕『いなくなれ、群青』を読んだ。3回目。素晴らしかった。河野裕の作品は奇麗すぎる印象があるし、どこかくどいところもあると思ってたんだけど、今日はその量こそ過不足ないものなんだったんだなと感じた。こんなに奇麗な愛の話があるかよ。僕はずっとそういうのを読みたいと思いながら過ごしてきたんだ。

 『その白さえ嘘だとしても』も読んだ。初めて。こっちの方が河野裕っぽい雰囲気がある気がする。面白かったけど、繋ぎの話という気はするし、なにより前巻が圧倒的だったのでそれと比べると、ですね。なんとなく読む前からそんな気はしていた。

漫画

 仲谷鳰やがて君になる』5,6巻を読んだ。6巻が出ていたので5巻から読み直し。

 劇のシーンが素晴らしかった。登場人物の状況との照らし合わせ方が良くてさ、これを見せられたら泣いてしまうよ。歳をとって涙もろくなったというのを強く感じる。

 ちょっとここ数巻は落ち着いてた気もするけど、文句なしで良い作品だと思います。アニメ化もされて今放送されている? そうで、まぁ僕はおそらく観ないだろうけど、アニメも良い出来であるといいな。

その他

 なんだろう、今日新しく触れた作品はどれも「あまり面白くなさそうだな」という触れる前の直感が不幸にも当たることになってしまった。そういうバイアスがかかった状態で読み始めるからだろうか。そういうものあってどうしても一度読んだことのあるものばかりに目が向いてしまう。新しいものを探すのは大変だし、経済的な問題もある。僕は保守的なんだ。

 感性が変わっていってしまうことが怖い。何度も同じ本を読み直して「あぁ前回と同じ感想を抱けた」と安心したい。

 ここ二日はまともにコンピュータ将棋、研究をやっていない。申し訳程度に学習は回しているけど、意味のあるものでもない。

 研究室に行かなかったのはどうやらキャンパスで祭りが行われているらしいという話を聞いたからだ。人が多くなるのは好きではない。しかしこの程度のことで行かなくなるのだから、どこかでぱったりと行かなくなってしまうということもかなり現実的な確率で起こるんだろう。あぁ、卒業できる気がしない。

 URL貼るのやだなと思っていたんですけど忘れないために。どういうお話が良さそうかって話

めんどくさい精神構造を造り込んでしまった人がその先にフツーの幸せを彫刻するお話

 だなんて、この一文を読んだだけでじんわりと泣けてきてしまう。

 全く顔見知りとかでもないけど、こういう雰囲気のブログが好き。でも真似できる能力はない。

1006

 米澤穂信さよなら妖精』を読んだ。2回目。

さよなら妖精 (創元推理文庫)

さよなら妖精 (創元推理文庫)

 特にめちゃくちゃ面白いというタイプの小説でもないと思うが、良い作品だと思う。僕は地理にも世界史にも疎くてあまりコアとなる題材の部分にピンとこないのはちょっと悲しいところだが。

 米澤穂信は主人公に厳しい。『ボトルネック』とかもかなり悲愴な終わり方だったと記憶している。

 『真実の10メートル手前』を読みたくて太刀洗が出てくるシリーズを読み返そうと思っていたんだけど、『王とサーカス』はちょっと長かった気もするんだよな。一度読んだことあるものばかり読み返すものどうだろうと思うところもある。しかし内容はもうほとんど覚えていないことも確かだ。

 一度の読書ではさっぱり内容を覚えきれない。覚えようとして覚えるものでもないのだろうが、しかし忘れてしまうのも悲しいことだ。

漫画

 『1518!』の5,6巻を再度読み直した。この先、これを読むのが辛くなることがないといいな。

 感性が変わってしまうのは恐ろしいことだ。1年後もこれを読んで同じ感想を抱いてほしい。それが僕の祈りです。

アニメ

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観た。1話を観た瞬間、絶対これ監督は幾原邦彦だろって思ったけど違った。え、本当に幾原邦彦ではないの? 変身シーンの使い方とか、妙な設定とか、口上とか、完全に思い出す感じ。調べたらやはり多少関係はある人らしい。まぁそうでないとな。

 全体として良い作品だった。熱くなる回も何度かあって、総じて出来が良い。かっこつけるべき舞台でかっこつけるという設定めちゃくちゃ好みなんですね。まぁ正直最後のオチは、あれだけ丁寧にやったんだから悲劇に流してしまってもいいんじゃないかとすら思ってしまったけれど。雑な悲劇にされると気分悪いが、あれで、しかもメタフィクションっぽい視点まで出てきて悲劇にすればそれはそれで面白いものになったと思う。

 キャラクターとしては京都の人が好きです。これはもう予測できたことで最初の登場シーンの時点でそうだろうなと思いました。あとは眼鏡の人も結構良かった。口上がかっこいいしそれを9話に活かしてくるのがおしゃれ。

 エンディングテーマが良かった。いくつかバリエーションがあったのも楽しくて飛ばさずに毎回観た。

その他

 研究室では能力以上に有能だと思われている節がある。性格的に謙遜をしないのと、研究室での滞在時間は長いせいだろう。たとえば同期の人と比べたとして、コンピュータ将棋の分野とか競プロについてならまぁ負けないだろうという気はする。しかし自分が詳しい分野で詳しいというのは当たり前の話であって、各人の専門分野での相対的な能力を考えると劣っていると思うこともある。本当に、有能な人間ではないんだ。それがちょっと辛くなることもある。

 何かを成せるとは思えないし、それを強く望む気持ちもない。今日みたいに物語に触れながら、退場までの時間を穏やかに過ごせたらいいな。

1005

コンピュータ将棋

 AlphaZeroの論文を読み直した。いくらか気になるところがあったのでそれを直してなんとかならないかなぁという感じ。たぶんまだダメな気がするんだけど。

 先輩が強化学習の勉強をし始めて、僕に質問してきた。危うく僕のフェイクっぷりがバレるところで危なかった。基礎から勉強する人間には勝てる気がしない。無能。僕は無能なんだ。

いまさら翼といわれても

いまさら翼といわれても

 読んだ。2回目かな。伊原摩耶花視点のお話が二つもあって満足。もうミステリ色も薄くなってきて、普通に思春期小説になっている。「才能に仕える」なんて怖ろしい言葉が出てきたものだ。しかし大きな才能ではなく、小さな才能に仕えるという。創作者っていうのは大変な生き方だと思うよ。

漫画

 相田裕の『1518! イチゴーイチハチ!』を読んでいる。5巻が出ているのを知らなくて、6巻が発売される通知で気づいた。両方買って1巻から読み直す。

 4巻まで読んだ。この作品はどうも毎回冷静に読めない。大事な部分をつついてくる感覚があるのだ。1巻では病院の帰りに、経済的な面を心配する描写が出てくるのが素晴らしいと思う。悲しさがよくわからない方向へ向かう感覚は、自分の身にも覚えがあると言いたくなる。なんだろう、それがもっとも悲しい原因ではないのに、浮かんでしまうんですよね。周囲への申し訳。

 5巻6巻を読んでいく。

 やばい。やばくない? これはなに?

 5巻130ページだかの三春英子を見た瞬間変な声を上げてしまった。なんだこれは。

 相田裕なんなの? 俺は相田裕を信頼するぞ。

 「相田裕、信頼できる」と100回唱えました。

 三春英子!! 三春英子!! ひえー!

 5巻6巻、爆弾でしたね。爆弾です。とんでもなかった。とんでもなかったですね。語彙が失われました。

 ちょっと時間を置いて冷静になってから5巻6巻をまた読み直した。おさげの三春英子さんめちゃくちゃ良いなぁ。いや、三春英子のキャラクターはズルですよ。これはね、まぁね。2年生組が好き。

 いやなんか言及してないけど1年組の方もすごかったですからね。そこでまず一発殴られてからの。

 いつの間にか強い恋愛漫画になっていた。なんだかんだでこういうの好きですよね。はい。

1004

競技プログラミング

 今日も今日とて一問だけ

 競技プログラミングをやっていて感じるのは、"慣れ"の力は偉大だなぁということである。別に地頭とかいうものが良くなっている気はしないが、明らかに解ける問題は増えている。将棋(元は囲碁?)の方では「棋は別智」という言葉があるそうだが、競技プログラミングでもそうだと思う。汎用的な智の能力というのは、かなり幻想に近いものなのではないかな。

 さて、AtCoderの青色も超えてくると正直かなり専門性が高まっていて、競技プログラミングがプログラミングの練習になっているとも言い難いのではないか。つまり僕のやっていることは完全に遊びで、毎日1,2時間をゲームに費やしているという意識を持つべきである。「実装力の訓練」などと言い訳をしているうちに自分でもそれを真だと錯覚し始めてしまうようではおしまいだ。やめるべきだとは思わないしやめるつもりも毛頭ないが、本来やるべきことである研究にどこまで役立つかというのは、あまり期待しない方が良さそうだ。もちろん、結果的に役に立つということがあればそれはそれで良いことなのだが。

コンピュータ将棋

 かなり重大なミス、というか勘違いに気づいた。よく勾配の式でy-tという式が出てくる意味が完全にわかっていなかった。これは損失関数の微分と活性化関数の微分を掛け合わせると結果的にそうなるという話だったんだな。交差エントロピー微分y - tみたいな真っ赤な嘘である関数を書いていた。書いていて疑問にも思わないなんて、何を考えていたんだろうね。

 線形評価関数の方でもsigmoidの微分を2重に入れていたから学習率を大きくしなければならなかったんだろう。しかしそれなら白美神の学習率はどういうことなのか。疑問は尽きない。

 基礎をおろそかにしているからこういうことになる。研究よりも勉強がしたい。同期の人たちは結構基礎からちゃんと勉強しているみたいで、優秀そうである。僕はと言えば、研究とも名乗れない何かをやっているうちにもう10月になってしまった。こうやって人との差がついていくのである。

氷菓

 全話見終わった。後半は『連峰は晴れているか』などの短編が連なり、最終的には『遠回りする雛』で締める。シリーズ全体としてのまとまりも良いし、やっぱり氷菓は良いアニメだ。

 この流れで原作の方に行こうと思ったんだけど、古典部シリーズは高校生の頃に紙の本で買って実家に置いてあるのだった。これだから紙の本はダメなのである。『ふたりの距離の概算』からは電子書籍で買っているため便利。

ふたりの距離の概算 (角川文庫)

ふたりの距離の概算 (角川文庫)

 さっそく読んだ。読書メーターの記録によるとこれで読むのは3回目だそうだ。アニメシリーズを観た回数も同じなんじゃないかな。まぁ普通に面白い、程度の言及しかできないけど、そう思っているよ。

1003

 コンピュータ将棋はバグが取れないまま。ニューラルネットの勾配がすぐ爆発する。ひょっとしてアーキテクチャが致命的にダメなんじゃないかという気がしてきたが、BonanzaMethodはちゃんと動くという実績が心の支えになっている。しかしそれももう一度検証してみないともう怖い。何もわからない。

 同期の環境構築を数時間手伝っていた。のに終わらなかった。UbuntuとCUDAとtensorflowとPythonのバージョン関係がしっちゃかめっちゃかになって何もわからない。こういうの本当にやっていて辛くなってしまうし、僕はフルスクラッチで書きたいなぁと思ってしまうんだ。

 氷菓の続きを観ていく。「期待」がテーマになる『クドリャフカの順番』編。でもちょっとだけバランスが悪い印象もある。原稿をナトリウムで燃やすの結構危ないし、トリックも結構成功確率が低い気がする。探偵役としての折木の重要度が微妙なんですよね。これが単体の作品なら探偵自体にももっとフォーカスできるような仕掛けをまた用意できたんじゃないかなぁ。しかし伊原摩耶花さんに良さがあるので全て正義です。ある種のバランスの悪さは、そういうところにも原因があるんだろうな。

 虚構世界の存在論は論理式と専門用語が飛び交う難しい部分に差し掛かってきた。論理学の基礎的な部分は学部の講義でやったことがあるとはいえなかなか馴染まない。前回は確かこのあたりで挫折したのだった。貸出期間の延長ができることに気がついたので、結構じっくり読むことができるらしい。メモは別のところに取りながら読んでいます。

1002

コンピュータ将棋

 モンテカルロ木探索、見れば見るほど探索回数が多く必要そうに思えるんだけど、学習時には800で自己対局って正気なんだろうか。なにか静止探索的なものを入れている? 一つ変な手があっただけで平均化がちゃんとなされるまで大変な値が出続けてしまう気がするんだけど。そして平均化するにはかなり多くの探索回数が必要なような……。

 わからん。もう一度AlphaZeroの論文を読み直した方がいいんだろうな。というか最近本当に論文読んでなくてなぁ。そのわりに実装が進んでいるわけでもなく。何をしているかというと何もしていなのだ。

将棋観戦

 王座戦が熱かった。棋士も数多くいるけれど、中村王座の対局姿は随一と言っていいくらいカッコいい。王座戦はちょうど一日制で夜遅くまでやっているのもあり、自然と見る機会も多くなって好きなタイトル戦ですね。始まる前はどちらに肩入れするわけでもなくといった感じだったけれど、今では完全に王座側になってしまっています。

 前局も序盤は優位に立っていたとのことだし、次局は先手番。これはフルセットまで観たいですね。斎藤挑戦者も好きな棋士ではあるんだけど、王座がイケすぎている。

 解説の永瀬七段は、なんというか結構感覚派っぽい解説調なんだよな。感覚を練り上げるためにたくさん努力しているということなのだろうか。こんなにいろいろ言うキャラだったっけという感じ。ダイエットに拘っているのが面白かった。

その他

 「一人で遊ぶ」の重要な点は共感を求めないという点なんだけど、どうして共感というものはあんなにも心地よいものなんだろうな。共感を求めず自給自足。強いオタクになろうな。

 今日は将棋観てばかりだったので本も読めないしアニメも観れなかった。

 久しぶりに一日の終わりにまとめて書く形式に戻した。20分くらいかけてなんかサラッと書けたらなと。

1001

 10月の目標は「一人で遊ぶ」です。9月が結構合宿やらなにやらで人と会う機会が多く、なんか社会性のすり減りを感じるんですよね。ここでもう一度一人遊びを見直して自己満足のレベルを上げていきたい。自己満足が上手くできないときっと僕の人生はつらいものになるはずだから……。

 uuunuuunさんがツイ禁するというのを見て僕も便乗することにしました。Twitterから縁が生まれることもあるし良い情報がやってくることもあるし、有益だとは思うんだけど、休みたい時もある。

コンピュータ将棋

 昨夜の悪天候のせいか再起動が発生していて学習が終わっていた。悲しい。

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 そこまでの推移はまぁ順調か。しかし100万局で勝率80%にしかならないっていうの厳しいんだろうな。1週間近く回して90%にも行ってないわけだし。

 ShogiGUIを使って1手1秒で対局させてみると勝率が75%くらいしか出ない。うーん、ランダム性の問題だったりするんだろうか。ちょっと困った。そしてニューラルネット版は符号のミスを修正しても上手く学習しない。困った困った。

氷菓

 dアニメストアに登録して観始めました。

第1話

 ぱなっからの里志の芝居がかった喋り方好きだな。このシリーズ全体を好きになるかどうかとして里志のキャラがどこまで気に入るかというのが大きいと思う。

 最果ての古典部千反田えるとの邂逅シーン、カメラの動き方すごいんだろうな。工夫なんだろうな。何かしらの効果が生まれているんだろうな。

 謎説明シーンの絵が面白いですよね。

 確保シーン(画像はイメージです)。髪の毛が触手のようになって、これはもう妖怪の類だ。原作はどのくらい描写があったっけ。

第2話

 伊原摩耶花さんの登場回。伊原摩耶花さん、めちゃ良いんだよな。

 千反田える嬢、距離の詰め方がえぐすぎる。って毎回観るたびに言っている気がする。

大事なのは真実ではない。千反田が納得することなのだ

 重要なテーマが出てきました。日常の謎ものにはありがちであるとは思うけど、こういうワイダニット的なの好きなんですよね。ミステリとして正当ではないのかもしれないけど。まぁそうは言いつつ古典部シリーズはちゃんとミステリやってる(真実を重要視している)方だと思います(虚構推理に比べれば?)。

 すでにメイド服姿が出てきている。強制的にコースを変更させる千反田える氏が怖すぎる。そういう怖いものとして描こうとしているんだろうな。折木奉太郎の主観世界としては怖いものでなければならない。

 伊原摩耶花の目も光る。

 メモを取るのを放棄して5話まで一気に観た。一連の流れがすごいんだよな。バラ色と灰色の転倒を仕掛けと合わせて鮮やかに演出するのはまさにミステリという感じ。憧れが一周して自己肯定に繋がっていくのが綺麗すぎる。そしてこの姉貴の存在感は、スパイラル的な印象がありますね。全てを見透かす上位者の掌の上で踊る人々。信じる者に幸福はありますか?

 第6話、伊原摩耶花素晴らしいキャラクターなんだよな。なんだこれは。

 なんで唐突に氷菓観たくなったんだろうと不思議に思ってたけど、1年前に観てブログに書いているのを見たからっぽい。1年単位で同じ行動をループしていく。

 愚者のエンドロール編まで観た。ここでこういう話を入れるのが米澤穂信っぽい。僕の中で米澤穂信は性格の悪いイメージが完全についている。しかし演技が熱すぎないか? まぁそういうものかね。

 クドリャフカの順番編に突入。ブレイクダンスのところの作画めっちゃ好きなんですよね。というか文化祭の出し物パートが結構好き。

 漫研の先輩、シャニマスに出てくる人に似てない?

 文化祭一日目は平和だなー。伊原家から消えた『夕べには骸に』これどういうことなんでしょうね。物語の都合上というのでもいいけど。

 今日はここまでかな。半分以上観ちまった。氷菓、やっぱりとても面白い。

虚構世界の存在論

 p.58あたりから。

 作者のやっていることは無数に予在している可能世界をストックとしていくつかの特徴を列挙することによって該当する世界を選び出すことである。発見でも創造でもなく選定と呼ぶことにする。[そうなのかなぁ]

 提示された部分に関しては原則として信頼できるものとできる。どの世界を選ぶか自体には大いに創造の余地があるが、一度その世界と決められると創作者の手を超えて虚構世界は一意に定まる。[一世界説では?]

 テクストは選定の産物である。では未規定の部分はどうなっているのか。D・ルイスの集合説モデルというものがある。そこでは「虚構fにおいて\phiである」が成り立つための必要十分条件は「fが事実として語られておりしかも\phiが真であるような世界があって、それはfが事実として語られておりしかも\phiが偽であるようないかなる世界と比べても、全体的にみてわれわれの現実世界との違いがより小さい」(ラムジーテスト流反実仮想の定義に近い(?))

 これに従えば「ホームズは月に行ったことがある」は偽である方が現実に近い、「ホームズには膵臓がある」「ワトソンの曾祖父母には名前がある」などは真である方が現実に近いと判断することができる。しかしこれでも解決できない命題はあり、たとえば「ホームズがワトソンに初めて会った時にホームズの頭には頭髪が偶数本あった」などである。これらはどちらの方が現実に近い世界かは決定できず、シャーロックホームズは諸世界を持つということになる。

 作品は虚構世界"群"と対応し、その諸世界全部を通じて真である事柄は物語において真、真であったり偽であったりするものは物語において真でも偽でもないとなる。二値性は成り立たないが排中律は守られた。

 ルイスのモデルはなかなか良い点も多いが、やはり世界の集合を考えなければならないという欠点はある。[「虚構の一般読者の存在論的知的レベルはいかほどだろうか、数学者級だろうか、幼児並みか?」という文章が好き]

 また外挿の原理も「現実世界に最も近くなるように」だけではなく、作者の意図に近くなるようにとか、読者の信念世界に近くなるようにとか、はたまた諸々の文学テクストが織りなす世界に近くなるようにだとか、あるいはもっとも美的価値を最大化するようにだとか、様々なものが考えられる。

 たとえばファンタジーとかは各文学テクストが種族について共通の信念を持っていたりする。ドラゴンが火を吐くのはある種"普通"だが、それは現実と近くなるような原理ではなさそうだ。つまり一体どの原理を採用すればいいのかが明白ではない。

 またどれかの原理が最も良い外挿原理として定まったとしても類似性の判定基準もまた曖昧である。さらには曖昧な語、たとえば実数などを含む命題が与えられると真偽が入れ替わる境界を明確に引くことは不可能になる。つまりある記述を真たらしめる集合を一意に定める合理的な方法はない[!]。集合説は記述に対応する集合を決定できず、この不確定性は一世界説の不確定さと実は大差ないものなのではないか。

 ある程度中心を決められるという合理性を集合説に見出す人もいるかもしれないが、一世界説への支持を補強する根拠を4つ示す。

  1. フィクションだと思っていたものがノンフィクションであったと判明するとき、これは虚構として考えていたはずの世界群が現実という一つの世界に収斂する事象が発生してしまうが、これは不合理ではないのか。
  2. ある世界について全性質は特定できないままでも固有名詞を与えて呼び名を付けることは往々にしてよくあることであり、理論的にできないことではない。
  3. 複数の人物像が当てはまり得る虚構の描写について自然な読みでは一人に固定して考えるものである。これと同じことが世界に対しても行える。
  4. 虚構内虚構や虚構が現実に昇格してくることがアプリオリには可能であることを考えると虚構存在は完全な存在でなくてはならない。[これちょっとよくわからなかった]

 虚構についての論理学(認識論)と、虚構における論理学(存在論)を区別しなければならない。そもそも現実世界についての認識も完全ではないため可能性の集合として捉えざるを得ない。しかし存在としては二値的である。これが虚構についても言えるのではないか。[このへんはそれっぽい。やっぱり第一感は一世界説が正しそう、読書のモデルとして合いそうだという思いがある。理屈をいろいろ考えると集合説の方が優位に思えてきてしまうのだが、いやいや一世界説も結構やれるでしょというのが本書のスタンスで、それは好ましいものに思える]