日記

日記です

20190531

 ランダムな順序付けの結果、発表は来週になってしまった。今日片付けて肩の荷を下ろしたかったのだが、来週まで弱メンタルを引きずることに。そして今日までに来るはずのイ合否通知メールが来ないんだけど……。落ちたのはわかっていてもちゃんと確認が取れてから次の行動に移りたいものだが。

 好きなバンドについての記事を書いた。明らかにコンピュータ将棋につられて多少読者登録数が増えたっぽいので、そうなると違うものを書きたくなるという性質がある。小説の話を書こうとすると気負ってしまうが、音楽ならば思い入れが薄いので適当に書ける。それを利用して弾みをつけられたら小説の話もできるのかもしれない。あとこの記事を書いていて、小説の話も作品ごとじゃなくて作家ごとにすればいいんじゃないかと思ったりした。今後どうなるかは神のみぞ知る。

プールの底に眠る (講談社文庫)

プールの底に眠る (講談社文庫)

 結構面白かった。プロット的なツイストがどこまで効いているかというと微妙なところで、最後は結構直球で来たなという印象もあるんだけど、作品に通底する雰囲気が好み。内省的、悲観的、厭世的、どれもピタリとした表現ではないような気もするが、それらがいくらか重なるようなところにある。

 読書メーターでちらっと他人の感想を覗いたりもするんだけど、感じ方というのは本当に多様だな。他人の感想に影響されるのも嫌だけど、自分の考えに凝り固まるのも避けたい。この塩梅は難しいところで、何度もしくじりながら上達していくのだろう。

その他

 僕は自分をプロット至上主義なのではないかと思っていたんだけど、最近実はそうでもないんじゃないかと思ったりもする。文章の巧拙と言いたくなるものを感じてしまうことはあって、そこを無視して本当にプロットだけで可否を判断できている自信はない。弁解するならば、個人的には文章それ自体の上手さ(同じものを表現する上手さ)というよりは話の流れの上手さ(どの粒度で何を表現するか)により巧拙を感じている気がする。これはやはりある意味でプロットの範疇だとは思うが、大局的なプロットとはまた別のものであるのも否定はできないか。

 音楽に対してでも小説に対してでも感情に対してでも、もっと精緻に語る方法を学びたい。一元化に対する反発として精緻に語ることによる分解というのはあり得るんじゃないかと思った。本来多様である(?)幸福感を単に「幸福」と片付けてしまうから、一元化して数値付け・順序付けができるというような発想に結びつく面もあるのかもしれない。「そういった呪縛から逃れないとより大きな幸福(!)にたどり着けない」という考え方をまたしてしまうのもどうしたものかと思うが。

 「より精緻に語る」という言葉には標語にしたくなる語感の良さがあると思った。しばらくテーマにしてみたい。