日記

日記です

20210207

 コンピュータ将棋はおおよそやりたいことの実装が終わってきた感じだけど、計測してみるとさっぱりという感じでつまらない。まだなにか実装にミスがあるのかなぁ。それともこういうものなのか。あっさりと強くなってはくれない。


 樋口円香が確か『天塵』の中で「どこ行くの、私達」というようなセリフを言っていたことを思い出す。僕はどこへ向かうのだろうか。海へ。海へ行くことが明るい話であれば良いが。


 幸福になれなくてもいいから不幸になりたくない。


 やっぱり1週間くらいかけて行った実装が空振りになったことで結構落ち込んでいるようだ。期待してしまったからなぁ。期待すると後がつらい。

 期待はしないけど諦めてしまえば可能性は閉ざされる。良いことなんて起こらないだろうと思いながら手だけ動かしていくことが一つの理想だ。明日からまた。

20210206

 追い込まれれば仕方なくやるという構図を考えるに、やっぱり自分というものは坂を転がる石となんら変わらないなと思う。すごく自然現象的というか、力を受けたから方程式に則って運動が生じる姿そのものだ。結果として生じた運動を「自由意志」と呼びたい人は呼べばいいけど、僕はあまりそういう感覚はないな。


 好きなプロ野球チームなりVTuberなりなんでもいいんだけど、不祥事を起こしてまずいだろうという感じになったとしても、それですぐ好きでいることを止められるかというと全然そんなわけはない。好きでいるものを自発的に嫌うっていうのはなかなかできるわけじゃないし、そういう点にも自由意志のなさを感じたりはする。

 関連として昨日読んだプロセカのイベントストーリーを考えていて、青柳冬弥の父親の主張はある意味で「ストリート音楽を好きでいる状態を止めろ」と言えるだろう。それに対して東雲彰人が(やや慎重な形で)示した意見も結局「父親を好きでいる状態を止めろ」と言えるから、論の作り自体は同じになってしまう。どちらの意味でも自分を曲げるなんてことは簡単ではないから、それらを止揚する形へ運んでいくのは納得感があると思った。


 人生における嫌なことをどれくらい許せるのか。結局今死んでないのだから死ぬほどは嫌ではないということになる。世界が理不尽なのは本当におかしいことで、もっと強く拒絶しなければならないのではないかと思うことがときどきある。おかしい世界を許して生きてしまうからもっとおかしくなっていく面だってあるだろうに。

20210205

 カジュアル面談があり、結構疲弊した。就職できる気がしないな。何回同じ失敗を繰り返すんだか。

 現金をほとんど触らない生活なのに貯金は確実に減っていくのだなぁというのが感覚としてよくわからない。ひょっとしてこの食べ物って買うときに僕はお金を払っているんですか? お金ってやつがないと食べ物は買えないんですか? それはびっくりだ。

プロジェクトセカイ

 リズムゲーム自体はずっとやっているが、ストーリーをまともに読むのはちょっと久しぶり。というのもやっぱり全体的な雰囲気はちょっと肌に合わないところがあり、筋自体が好みなものでないとなかなか読む気にならないので。雰囲気というのは主に描写が全体的にくどいというところで、もっと読者を信頼してくれていいんだぞと思うんだが、別に僕に好まれるために作品を歪める必要もない。

 さて、今回のイベントストーリー。青柳冬弥を軸とした「親の不理解」がテーマだったわけだけど、やはり僕はこれくらいの落ち着きの中で話を進めてくれると読みやすいと感じる。8話のストーリーの中で3回も対話を試みる機会が出るというのが好きだった。こういうのは一度で派手に決めきるというよりも、こういう衝突の連続を繰り返すうちに徐々に落ち着くという構図の方がふさわしいと思う。

 結論としての、相互不理解の中でも敬意を捨てないという方向性はとても良い。東雲彰人が示すように価値観の違う相手は無視してしまうのが現代的かもしれないが、それだけでは捨てきれない愛着というものもあるだろう。嫌いたいわけではないが、お互いを理解することはできない。これらは、でも実は両立できることだ。絶望的な断絶が、しかしそのままあっても良いのではないか、というのは一つの道だと思う。

 にしても東雲彰人のこの割り切り方は、やはり姉が大荒れしたところを見て育ったからという面があるという想定なのだろうな。その点に関しては僕も身に覚えがないわけではない感覚だから、なんともなキャラクター性だと思う。

20210204

 とうとう今日は進捗がほとんど0と言っても過言ではないレベルになってしまった。Segmentation Faultが起こる原因を特定するためにUbuntu20.04を導入してCLionでデバッガを走らせたりしたけど、全然よくわからない。確率的に起きているようにしか見えなくて非常に厄介。

 NVMeのSSDにUbuntu20.04を入れて今後はこっちをメイン環境にしようと思っているが、ちょっと18.04とは使い勝手が違うところがあってこれまた困ったりする。ファイルパスのコピーに余計なものがついてくるようになってたり、複数ウィンドウを小さく表示させるときの順番が固定になっていたりとか。まぁ適切に環境は作れたからいっか、ってまだ将棋系のGUIを入れていなかった。ここ動かなかったらまたしんどいな……。

 元気がなくなってきた。わかりやすい成果が欲しいね。

20210203

 コンピュータ将棋はやや勢いが落ちてきたのを感じる。詰まる理由がよくわからなくなってきて、粘って原因を追いかける元気も少なくなってきた。「上手くいってもおおよそこの程度」という限界が見えたのも気力が減退する理由の一つだろう。

 最近の日記は全部記述が空回りしているように見える。ろくに見直す時間を作っていないからかもしれない。書けないときは書かない方が良いのかも。

20210202

 届かない悲哀のパラドックス。明らかに僕は届かないメッセージという概念が好きだけど、それ自体が作品化されて僕が読んだものは少なくとも僕に届いてしまっているので真に届かない悲哀を表現できているのかどうかという問題がある。虚構世界の中でそうであることと、それが現実世界に対して意味を持ってしまうことはまた別のことではあるが、しかしそんな割り切りで大丈夫だろうか。作品というのもひどく抽象化された言葉でしかないと思うことがいくらかあり、つまりは動物にとっての鳴き声で、それは現実と完全に切り離されては存在できないのではないか。

 近い話題として、虚構キャラクターや人工知能を、生身の人間とは違って内面を持たない(傷つかない)ものとして利用することの倫理的問題を考えたりする。表現規制にまで至るかはともかくとして、虚構相手にならば何をやっても良いというのは本当かな? 本当なのかもしれない。どれだけ虐待的な行為でもそういうことを想像したり表現することについて問題はない気はする。僕は見たくないというだけで。

 好きになれなかった作品について触れるべきかどうか悩んでいる。何かを好きになれなかったというのも僕の感性を輪郭から語るやり方として良い気はするが、そんなことをするべきじゃないという気もする。やるなら気合いをいれなきゃいけないと思うし、今はコンピュータ将棋に忙しいので少なくとも今じゃないか。

20210201

 コンピュータ将棋をやっている。


 とある文章を見ていて、死にたいときには「死にたい」って書いてもいいんだったなということを思い出したりした。でもそれは僕の理想ではないという気持ちだってある。どちらも大事で、迷うところだ。今は調子が良いから暗い気持ちにはならないけど、そうなってしまうときだってある。そういうときに自分の首を絞めるルールを定めておくとさらに苦しむことになるかもしれないが、でも理想を忘れたら際限なく落ちていく気もする。僕は自分を自分で繋ぎ止めるしかないから。


 作品の感想なんて当然のように誰かと被るし、なんなら自分よりもっと上手く表現する人だっていくらでもいるんだけど、それでも自分が書くことに意味があると思うか? 僕はある、と思うよ。

 そして、拙いながらにも感想を書くならばで一番大事なのは分量、つまり端的に言って文字数をとにかく増やすことだと思う。素人には一つの言葉で核心を抉ることなんてできないので、同じようだが微妙にズレた意味を持つ言葉を重ねて浮かび上がらせるのだ。もちろんそんな冗長なもの、誰が読むのかって話ではあるんだけど。まぁ誰も読まなくたっていんですよ。本当に。

 ここ数日は完全にOrangestarにハマっているという感じなんだけど、この『八十八鍵の宇宙』が一番好きだな。

絞り出した言葉 海へ 誰が誰が知るもんか