日記

日記です

20190306

 輪講二日目。補足というか自分の気になっているところをM2の先輩に聞いただけ。黒板に謎の図を書きたくなりがち。他人にわかりやすく説明することへのモチベーションはまだ得られていません。

 研究室に2080ti2枚刺しのマシンが届いてセットアップするなど。名目上自分専用のものにするわけにはいかないんだけど、自分の隣の空席に置いて占有する気満々という感じ。Slackの全体チャンネルにマシンが届いたことを報告すると皆に使われてしまうからやめておこうかなぁとか悪いことを考えたり。家に帰ってTwitter見てたらもっとすごい計算資源をバーンと使っている人ばかり目に入って、せこせこ計算資源をがめようとしている自分がアホらしくなってしまった。そうですか。

数値バトル

 偏差値バトルの次は年収バトルになるのかなぁということを考えていた。お勉強はともかく、お金を稼ぐことにはあまりやる気が出ないのでそこで争いが始めると厳しいことになりそう。自分の能力で得られる最大の金銭を得るための努力というものができない気がする。なので早いうちにそういうバトル精神を抜け出さないといけない。人間を一次元的な評価軸に落とし込んで優劣をつけ始めるのをやめろ! しかしそれが人の性というものなのかもしれません……。人との関わりを断ってしまうというのが一番手っ取り早く、しかしそれに気づくと。

 どこまでが伊藤計劃の手によるものでどこからが円城塔の仕事なのかも把握してないんだけれど、やはりこれは円城塔よりの作品だと思うな。円城塔、理解のほんの少しだけ先にあるという印象で、作品によってはぎりぎり触れて楽しかったりして、また別の作品ではさっぱりわからないなという感想だけになったりして、という感じ。『屍者の帝国』は、やっぱりわからない側に近い気もする。

 もう少し自分の疑問を突き詰めて考えることができれば多少は自分なりにでも解釈できそうな気はするんだけどそれができない。体力。知的な体力が欠けている。物事を粘り強く考えるということがさっぱりできない。もうその体力も衰えていく一方なんだろうな。厳しい。

 世界史も詳しくなければ古典にも詳しくないので、登場するキャラクターが有名作品由来のものというのにも気づかなかった。たとえばカラマーゾフの名前がどれくらい意図的に付けられているのか、読んでいるときにはわからないままだったし、ハダリーもバトラーも知らない。ワトソンに対してMというのも、はぁなるほどそうなんですかという感じ。超ハイコンテクストなんだな。ハイコンテクストなもの好きなんだけど自分がわからないものだといやわかんねぇよってなります。それはそうです。

 ところで読書メーターに記録が残っていなかったんだけど、確実に初読ではない。記録漏れかぁ。こういうことはいくらかあるんだろうなぁとは思っていたけど、実際にあることがわかってしまうと少し悲しい。Twitterとかにも残っていないしなぁ。

20190305

 なんとか大学院への入学書類は提出したけど、あまり確認していないし不備があるかもしれない。

 輪講一日目。最初なので特に言及するべきこともなく。新M1,M2側の参加人数が少なくて緩さがバレ始める。

 その後は論文書き。英語でウェブページを巡って必要な情報を集めるの大変すぎる。リンク貼られている先から数クリック必要だともうわからない。にしても卒論フォーマットから投稿用フォーマットに流し込んだだけでページ数が1/4以下とかになってしまったぞ。まぁそんなもんかもしれないが……。

書簡体

 書簡体の話。僕はあまり書簡体は好きではないかなぁという気がしてしまう。絵的に派手になりにくいというのと、あとはやはり騙される、考える側の役が欲しいというところかなぁ。ついでに言うと叙述トリックもあまり好きではないんですよ。あれ? 好きじゃないものだらけでは。

 叙述トリックは読者だけを狙い撃ちして「驚いたでしょー!?」みたいなノリになりがちな気がしていてそういうところがあまり……なのかもしれない。それは部分的に書簡体でも同じことで、つまりここには作中キャラクターと読者のギャップがある的な……。となると共感的な読み方を多くしているということになるのかなぁ。本当かなぁ。

 あまりシーンを想像しない派を自認している僕としては、絵的に派手になりにくいというのも欠点に感じてはおかしい気もする。まぁ絵的にというか、派手に盛り上がりがあった方が良いという気持ちはあるか。短編読みではないというのもそこらへんが関わっているのかもしれない。

その他

  • 歳を取っても戦っていくのだ、というところに感慨を覚えるほどまだ老け込んでしまってはいけないぞ。まだ若者。まだ。
  • 精神的に不調なのは体調が悪いのに引きずられているからかもしれない。どうも身体がダルい気がするし喉の調子も少し悪い。なるほどそういうことか。そういうことにしておこう。身体が元気になれば精神も元気になります。きっと。みんな元気。

20190304

 新B4に向けたプログラミング課題1回目。人々がどの程度知識を持っているのかよくわからなくて準備も不足していて申し訳なさ。わりと自分が便利だと思うもの押し付け人間になりがち。

 その後は論文をちゃんと書き始める。フォーマットを変えるだけでわりと大変な気がするし、Wordよりtexの方が手間少ないなんてこともないんじゃないかと思う。ただGitによるバージョン管理と相性が良いというのは良いかもしれないけど、じゃあGit以前だとどうだったんだろうという気もするし、別に個人でやる分くらいならWordで名前にバージョン打って管理するのでも困らないかも。気持ちの問題でしかないかなぁ。

プロットマスター

 プロットマスターという造語についての話

プロットマスターを造形するコツは、その作品における問題意識を擬人化させることです。作者がその作品で最も届けたい「声」と言い換えてもいいかもしれません。というのも、プロットマスターの動きはクライマックスという大舞台で明らかになるからです。

 本当にそうなんですよね。そうなんですよ。物語はプロットマスターのためにあるんです。

 でもこうなるとわりと作者の意図肯定派的になってしまわないか? いや作者の意図の存在を否定しなきゃいけない意味もないんだけど。いや否定しなきゃ「ただ一つの正しい解釈がある」という立場になってしまうのかな? それは嫌な気がする。

 解釈もバトるしかなくない? という気持ちにもなる。面白解釈バトルなんですよ。本を読んでより面白い解釈をできた方が勝ち。ここでは作者の意図も解釈の一つとして相対化されて面白尺度によって測られて数値が低ければ見向きもされないものとなる。

 まぁ実際には作者の意図というのが有力な解釈になることが多いんだろうけど。そんな感じの立場を目指したい。つまりテクストは必ず読み方とセットになる的な。それは作者死んでるの?

その他

 身体に漫然とした希死念慮がまとわりついていて、これを剥がさない限り幸せにはなれそうにないなぁと思う。何かに集中していたりするときは忘れられているんだけど、ベースの状態はやはりこちらなんじゃないか。頑張って目を逸らすのだ。

 あー、ダメ。やるべきことができません。身体に力が入りません。ダメです。

20190303

 今日は計17時間くらい眠っていた。うーん。こういう日もあるんですね。

 競プロは一応やった。本当に一応という感じだ。

漫画

 読み切った。いやー、なんか評価に困る作品だった。なんだろう、「それ必要か?」みたいな描写が多くて、詳しさとか理屈の付け方の深さがいまいち自分の感性とはなじまなくて。作中で何ができることで何ができないことなのかの提示が明確でないという気もするし、だから何を不可能なことで何に驚けばいいのかというのがわからなくなってしまう。一方できっちり人を殺すのはいい気もするし、だからそこをもっと激しく描くこともできるはずなのに妙にサラッとしている気もするしそこに何か強烈なプロットとしての価値も置かないし。面白くなりそうなきわきわのところまで行っているのに面白くなりきらないでもどかしい。なんだろうこの感覚。なんなんだー。

その他

 虚無感が強い。何もできないなぁ。やるべきこともやりたいと思っているはずのことも。

 明日からまたいろいろあるんです。頑張らないと。まずは早く寝ないと。

20190302

 beamerを少しいじってみたが、今研究室で使われているパワーポイントのテンプレートに似せるのはなかなか困難そう。身内でのミーティングにのみ使う感じかなぁ。

 その後は明後日新B4に出す課題の解答を書く。二日前に書くギリギリ感。しかもC++の解答なんて誰も見なさそうだが……。文字コードに関する知識が多少はついたのでまぁ良しとする。やっぱり文字列の扱いは生のC++でやるものではない。

 dockerに苦戦するなど。なんかイメージが壊れていてpytorchをビルドし直さないと動かなかった。意味不明。それじゃdockerの意味ないじゃんという感じだが。

その他

  • 復活させたとも書きそびれていたTwitterアカウントをまた消した。自分でもどうしたいのかわからんのよね。それはそうなんです。なんで復活させたのかももう思い出せない。何?
  • 人々がみんなつまらなくなっていくと感じる場合、実際につまらなくなっているのは自分なんだろうけど、それがわかったところでどうすればいいんですか?
  • きっちりした文章を書きたいということで、日記は雑めに。やはり書きたいことを中途半端に日記で書いてしまうとそれで満足してしまうところがあるようだ。それでも書けるかはわからないが……。
  • 人々が強くなっていっている。良いなぁ。
  • 結局哲学をやる知的体力がないからこんなことになっているんだ。もっと絞らないとなぁ。
  • なんもわからんという気持ちが強くなってきた。疲弊。厳しい。

20190301

 研修一日目。準備が悪くてスムーズに進められない。そしていろいろな不備に気づく。月曜日までにやるべきことがいくらか出てきて、明日からもまた大変そうだ。

作品の話

 僕はミステリ読みではないんだけど、一方でどんでん返しを好む性質があるところは認めざるを得ない。どんでん返しという言い方は正直あまり好きではなくて、仕掛けとかギミックとか転倒とかそういう言い方をすることの方が多いが。戸松さんが言うプロットっていうのはこのあたりのことなのかなぁという感じ。

 ついでにプロットとストーリーの話。

 これ見てある意味プロットは過去志向、ストーリーは未来志向だななどと思っていた。そういえば僕は作品を読んでいてあまり「この先どういう展開になるんだろう!?」というような気持ちになることはないかもしれないなぁと思う。ストーリーに引っ張られて読んでいくことはないというか。それよりもむしろ因果と動機を掘り下げられた方が楽しくて、読者と作品の相性をこういう切り口で語れるのかもしれないと思った。すでに終わったことに対して新たな解釈を謎解きとしてもたらすミステリが、部分的な意味では好きなのだと思い直した。

 しかしミステリを本当にパズラーとしてやられると面白さを感じられないというのも最近の読書傾向で分かってきていることで、こうだからプロットを工夫した作品というのが見たいという結論になるのだろうか。ミステリが一般化してそういうのがミステリと呼ばれなくなった的な言説も見かける気がするが、実際のところそういうミステリ的仕掛けがどの程度一般に支持されるものなのかよくわからない。人々本当にどんでん返しが好きなのか?

 あとは僕がたびたび好きと言っている内省というのも多くの場合過去志向のものだなと思った。やはり好きなキーワードは動機と解釈かなぁ。

その他

 なんかいやにこの日記のアクセス数が伸びると思ったら、Twitterのプロフィールにリンク貼ってたようだ。そこからだとしたら、わりと読まれることを想定していない層なので少し気恥ずかしいな。Twitterからではないという可能性も大いにありえるんだけど。

 アクセス数が多少なりとも気になってしまうのが良い性質か悪い性質かは、まだ判断がつかない。

20190228

 本日の日記は全編愚痴でお送りいたします。

 追い出しコンパがあった。まずこの「追い出しコンパ」という名前からして一切品格というものが存在しないと感じる。人々が自ら面白くない方向へと踏み出していく愚かなる行為の集合体。

 さらに今日嫌だったのは隣に座った人間が典型的なセクハラ人間でそういう話題しか口にしない最悪の場を形成していたからというのもある。こういうのと研究における能力とか資質とかっていうのはどの程度切り分けて考えるべきなんだろうか。はっきり言って口をききたくないし視界にも入れたくないと思ってしまうが。

 ついでに言うと酔って面白くなくなる人間の特徴として何でも都合の良いように解釈するという点があり、僕が本当に嫌って無視しているのを「そういうノリ」として面白がり出したのは異常だと思った。内省というものが全く持って欠如しているんだろう。僕は内省の無い人間が嫌いだ。

 この一年間は一応公式に行われる飲み会には出席していたけれど、一つも面白いとは思えなかった。そろそろ飲み会について不参加を考える頃合いだが、研究室には四六時中いる癖にこういうのだけ不参加となると流石に露骨すぎるのかなと思ったりもする。しかし今の態度の方も十分露骨か。お前らと仲良くする気は一切ないですよと思っていると思われていると思っている。別にそこまで強い気持ちはないんだけれど、わざわざ誤解を解く気もしないし、つまらない人間と一緒に時間を過ごしたいわけでもない。

 そして時々であれば、こういうつまらないことを体験するのも悪くはないと思っている。この世には他人が楽しめて僕が楽しめないものがあるのだと確認すると、僕は自分が楽しめることで他人の2倍3倍楽しめないと幸福の総量が同じにならないんだなということがわかる。僕はもっと自分の楽しめることについて真剣に、より多くの楽しさを享受できるように取り組まなければならない。奴らに幸福量で負けてたまるか! というような気持ちもある。これが捨てるべきものかまだ判断はつかない。

その他

 嫌いなものについて語ることは嫌いなんだけど、何が好きかを考えることと何が嫌いかを考えることの距離はかなり近いとも思う。だから嫌いなものを語るときもできるだけ精緻に語り、それによって自分の好きなものを逆側から照らす。自分が好きなものを明瞭に把握することが人生の目標の一つです。