午前中は本を読み、午後はだいたいシャニマスをやっていた(結局やってんじゃん!)(たいてい日記で「これはやらない」と言ったものはやるんだよな。本当にやらないものは一切言及すらしないので)。
本
ロボットなー、いや本当にそうで、自分がやりたいことってそういうことだったんじゃないのか? と思ったりした。今ロボットをやっていないのはロボットは個人でやるのが難しそうなのと、ハードウェアが絡むと時間がかかりそうだと思ったからだったけど、せっかく大学に所属しているならロボット系の研究室を選べばよかったかもしれない。結局今のコンピュータ将棋もアホほど学習に時間かかっていてつらくなっているわけだし。
月並みだけど、この先死ぬまで学び続ける姿勢を失いたくはないなと思えたのは良かった。老化とか体調不良とか、学ぶ速度が遅くなることはあるかもしれないけど、姿勢としてはね、学ぶ方向でありたい。最近は今までの能力的財産で就職してそれ以降は伸びしろが無くなるんじゃないかみたいな考え方になってしまっていたな。そうではないですね。
後はチームとしてやっていくことの大事さが書かれていて、これはちょっと耳が痛くなったり。協調性が低いことは、やはり良いことではない。できる限り開き直るような真似をするべきではないなと思った。人と関係を持つつらさは感じてしまうけど、60点が無理だからといってじゃあ0点でいいやということではなくて、40点でも50点でもできる限りは目指すべきだし、さらに言えば訓練して上限を上げていくべきだろう。
全体的に極端にものを考えすぎる傾向にあったのかもしれない。「必要最低限の労働とそれ以外の余暇」か、「この先全部遊びなく努力」の二択みたいな気分になっていたが、きっと現実はそうではない。「一生一人」か「突然社交性爆発」という二択も違うんだろう。現実はきっとその間にある。
まぁしかし、100点を目指してやっていって80点に落ち着く理論もあるよな。極端を目指してこそ中庸に落ち着けるのでは? わからん。難しいですね。
もっと根源的なことを言えば僕は僕に自由意志があるとは感じていないので、結局これも外圧とか内部動機とかに押し合いへしあいされた結果にすぎないなとも思う。何が良いとか何が悪いとか、その基準そのものが存在しないじゃないか。
シャニマス
浅倉透
一応折りたたみ
最初は負けルートでも良かったけれど、手を抜く気にはなれないので普通にやったら勝ってしまった。Visual特化で殴りきるのがなんかキャラクター性と合っていて「こいつ……!」という気にもなるが、それがふさわしい気もする。
シナリオの方は、僕に直撃するタイプの話ではなかったが、良かった。根本的にはキャラクターが良いということなんだろうな。やや遊離感がありつつ、しかし世界に絶望しているわけでもなく。感じたことに、考えを踏まえて出力しようとするとこのテンポ感になると思うし、そういう表現がとても好みだった。
「ジャングルジム」という観念の取扱い自体は嫌いではないが、なんというかアイドルマスターという物自体が一つ「アイドル」という比喩を通しての表現であるのに、そこへさらにジャングルジムを重ねると二段構造になるんだよなとは思った。この二重性はそれはそれで意味のある構造だと思うので別にいいけど。
ちょっと感想を調べたりして、さとり世代的リアル感として受け取られる場合もあるのかと。なるほどね。
樋口円香
一応折りたたみ
こっちもある意味でのリアル感があるキャラクターではあるのかな。声の低さは好み。性格もまぁまぁ好き。
そして同じようにやってもこっちは負けるんだよなぁ。浅倉透の近くで上手く生きてくれという気持ちになる。「自分より強い存在者との関係性」というのは僕がかなり好きな話なので。スパイラルもヴィークルエンドもそれの話だと解釈することができるわけだし。その意味ではWING直前のコミュが良かったですね。
高く設定した夢や希望に追われては躓き続ける事に恐れや躊躇いを感じる樋口円香とその辺の覚悟は完全に通り越してる浅倉透 pic.twitter.com/6Qbxc3IwpB
— 牧村ケイ (@Makimura_Kei) 2020年4月6日
上のツイートも含めさらっと検索かけたけど、浅倉透と樋口円香の関係性について悪いことを考えているオタクが多いですね。人の業。でもこの二人のサポートコミュを見ると確かにそうなるかも……。異次元だ。こんなものが許されるのかシャイニーカラーズ。
なんとなくノクチルの関係性を把握して、こうしてみるとやはり樋口円香のポジションが一番好きになってしまうな。これはしょうがない。そういうものだ。
その他
シャニマスについての話をどこでやればいいのだろうと悩んだ結果ここになる。@tokumini_ssでやっていいものかどうか。うーん、やっぱり個人的にはものすごく抵抗があるんだよなぁ。
だいたいこういう話をどこかでして、それでどういう反応が得られれば満足なのかもよくわからない。正直ふぁぼられたとしても、あるいは一歩進んでただ「わかる」とか言われたとしても、それは「はぁそうですか」で終わりそう。
コンピュータ将棋の話は指摘をもらえたりするので呟く意義がある。となるとこういう話題でもより良い解釈の話をされたら一番満足ということになるのかな。ただそれを現状のフォロワーに求めるのは変な話だと思うし、自分で検索すればいいじゃんということで、やっぱり微妙か。
自分が何を望んでいるのかがわからないというのは根本的な不幸だ。世の物語類型として、願い間違えて破滅する話というのは多い気がする。もっと自分のことについて考えなくてはなぁ。