日記

日記です

20190704

サンデルの政治哲学?<正義>とは何か (平凡社新書)

サンデルの政治哲学?<正義>とは何か (平凡社新書)

 読み終えた。十分な説明がなされており、良い本だったと感じる。どうでもいい話としては、こういう他人の思想の解説本を読むとひょっとしてこれが元の思想というのは嘘で全部解説者の曲解なのではとか思ったりもする。特に意味はない遊びだけど、実際にそういうことがあったら滑稽で面白いとは思う。

 内容としては、しかし遺伝子工学による身体の増強や生まれてくる子供のデザインという話題に踏み込んできたところでは、サンデルの思想に対する違和感が強くなってきた。生命が天賦のものであり人間が介入しすぎるべきではないというような考え方にはあまり同意できない。僕はテクノロジーによる進歩を肯定する立場なので。

 しかしスポーツにおいての身体増強を考えるとそれは明らかに何かしらのルールに縛られるわけで、スポーツの目的というものを考えざるを得ないという指摘はそうだと思った。100m走で車を使えばルール違反だろうが、車の形が極限まで靴の形式に近づいていったらどうだろうか。機械的な仕組みにより猛烈に走るのが速くなる靴。それと車との間に線を引くためには目的論が必要なのかもしれない。

 子供をデザインすることによって親から子供への愛が条件付けのものになってしまうという話題に関しては、むしろそうであるべきなんじゃないかとすら思える。ここはかなり分かり合えないところだろうな。次の文章とかすごくて、

次の三つの鍵となる観念も変化させてしまうことになる、と言う。それは、「謙虚」と「責任」、そして「連帯」である。

 びっくりするほど苦手な言葉を羅列されてしまったのでびっくりした。

 あとは本質的な要素ではないけど、核兵器って人類を本当に根絶やしにするほどの威力があるんだろうか。また理論的にその火力が出せるとしてそのような核兵器を開発している国があるんだろうか。これは単純に気になる。放射能汚染とかの影響を含めれば地球全域を終わらせることができるのかな。

 まとめに入った。リベラリズムの論理が怪しいことはいくらか理解できた。善についての判断を保留してできるだけ不介入であることなんでできなくて、正義を考える際には善をも考えなくてはならないという考えには納得できる。しかしコミュニタリアニズムの(というかサンデルの)生命観のようなものは受け入れがたい。形式が間違っているが結論には共感できるリベラリズムと、形式は正しいが結論に納得できないコミュニタリアニズムという印象を受けた。

 ひねるとしたら、目的論的正義として「人々の行動をできるだけ制限しない」ということを善としたら結局リベラルにはならないか? という感じだろうか。共和的に善を決定していこうとは言うけれど、こうすることが善い、こういう状態が善いというのを、人類は何度も勘違いしてきたのではないのか。その結果として、できるだけ行動を制限しない、介入しないということが妥協の末の、しかし今まででもっともまともな、善として掲げられているのではないのか。善としてのリベラリズムというものは成り立たないのかな。

 まぁやはり僕は進歩史観的な見方をしている方なんだと思う。本の中でも何度か触れられていたけど、コミュニタリアニズムがかなり文脈を意識した保守よりっぽい性質を帯びるのもある種当然な話かもしれなくて、反発したくなるのは論理構造よりもそういったところだったと思う。それでも僕は科学技術至上主義的な立場からなんとかしていきたいなぁ。