日記

日記です

20190703

 続きを読んで2/3ほどまで。コミュニタリアニズムの主張が見えてきて、相容れないところがあるなというのもわかってきた。

 「善を考慮しないで正義を考える」とは、人によって何が嬉しいか、何が善いことなのかなんて変わるから、政治主体はそういうことを考えないようにして、できるだけ中立という姿勢をとって、自由・権利の保証だけに注力するという感じの意味だと捉えた。今の政治形態は基本的にこういう感じになっていると思うし、それはある意味自然ではあると思うけど、そこに問題を見出すのがコミュニタリアニズムであると。一番の問題は、やはり中立なんてものが幻想だということだろうか。

 たとえば中絶を違法とするかのような問題において「妊娠中絶するかは妊婦が決定するべきもので、国家権力は立ち入るべきではない」とするのは、胎児はまだ人間ではないという判断を下しているに等しい。どのような決定をしてもなにかの世界観、宗教と相反するということはあり得るということになる。意見がぶつかり合う部分は政治では扱わないなんてことはできない。道徳的判断からは逃れられない。この本とは違う最近読んだブログの文章だけど『表面的なメッセージ内容がどんな内容であるかに関わらず、とにかくそのロジックが発するメタ・メッセージは「出口はない」ということなのである』。

 なので責任放棄的なリベラルではなく共同体全体で共通善を設定していってその目的のもとでの政治的決定を行わなければならないという共和的主張が、まったくわからないわけではない。しかし共和的自己統治のためには市民との熟議や教育のようなものが必要というところで、やはりいくらかの気持ち悪さは覚えてしまう。

 リベラル的「負荷なき自己」は政治に心が向かない可能性も高いので、早晩民主主義が崩壊するという主張は確かにそうかもしれないが、そうであるならば僕は破滅して終わりでいいじゃんという立場になってしまう。社会は維持されるべきという考えが当たり前には思えない。

 結局、諸概念をテクノロジーの進歩によってぶっ壊せというのが僕の根っこのところにある主張かもしれない。科学技術至上主義的な側面が確かにある。僕にとって理想的な状態とは雑に考えると全ての人が各個人の思うようなバーチャル世界に住むことであり、それはきっと社会の崩壊である。人間はその瞬間以降一人も生まれない。人間を生みたい人間はその人のバーチャル世界で勝手にすればいい。社会の維持なんてものに興味がない。

 これは加速主義と呼ばれるものの一派なんだと思う。しかし「加速主義」として括られるのも嫌だなと感じるところはある。多分いくらか他人任せっぽい感じが出てしまうからだと思う。「このペースでテクノロジーが進歩していけば」って、念仏を唱えていれば勝手に進歩するわけではなくて、誰かがやらなきゃ進歩なんてしないだろうに。この世の科学者全てから唐突にやる気がすべて失われて、今後一切テクノロジーの進歩がなくなるかもしれないということを時々考える。他者に頼りきってしまうのは違うだろう。自分が科学技術に取り組んだところで貢献できることなんてないだろうけど、しかし手放しで見ている状態にはなりたくない。これが僕の祈りの形式。

 ややこの本にも飽きてきたが、自分の主張が少し明確になったのでこれだけでも読む価値があったと思う。今月の狙いです。