今日は研究室には行かず。
午前は起きるのが遅くていつの間にか終わっていた。
午後はバーチャルコンテストに出たり。格の違いを明確に感じてしまった……。うーん、やっぱり僕は競技プログラミング弱いですねぇ。頭が悪いともいう。
僕が競技プログラミングに時間をかけても到達点はたかが知れているなぁという気持ちもあり、おとなしくゲームでもやっていたいとかそういう気持ちにもなる。
アイマス
もう数日前の話だけど少し。
プロデューサーを名乗るのはごっこ遊びだが、そこに屈託があって欲しいとも思ってしまう。現実と虚構のギャップ、ファンとプロデューサーのギャップ、そんなものを(一部の)「アイマス」ファンには感じていて欲しいし、できればそれを言語化してほしい。それは創作ができるPよりもできないPの方が痛切に表現できるのではないか。
やはり「プロデューサーの行く末に」はとんでもない名文なんですよね。考察も(全部同意できるわけではないが)それっぽいことを言っているという中で、確実に個人の真摯な体験がベースにあると感じられるのが良いんですよね。
初ライブのあの日、私は一曲目の『THE IDOLM@STER』を歌うガールズを見て心を揺さぶられ、涙さえ流した。自分を救ってくれた「アイマス」が目の前にあるのだと感じた。ただ「ありがとう」と叫ぶことしかできなかった。そして、あのとき『魔法をかけて!』を歌い踊る中村繪里子さんは、私にとってはまぎれもなく“天海春香”であったのだ。
こういう文とか、きっと僕もその環境に置かれてしまえばそう思うんだろうなという説得力がある。そして真骨頂は強烈に本人の話題に引き付けられている最後の5章で発揮される。
「俺」の物語でしかないからだ。
ここでこう始まるのが本当に好き。アイマスに関して冷静な視点で語ろうとすることも大切かもしれないけど、個人の体験、感性にがっしりと結びついたときの圧倒的な説得力には敵わない面もあるんじゃないかと思ってしまう。
しかし、あの文章は大嘘です。 いや、正確にいえば俺は自分とは無関係なものとしてあの文章を書きました。
こういう転倒とかね、もう完全にミステリものですよ。素晴らしいよなぁ。ここで"プロデューサー"という言葉が持つ重みが全てひっくり返ってくる。この構成はなかなか真似できない。すごい。読み直していて脳が痺れてくるほどだ。「おわりに」の後半の勢いが凄まじすぎる。これが文章。
さらに言えばこの後に続く「都筑みらい」はそこにいた」には凄まじいエモさがある。これがエモ以外の何者だとというのか。
やはり僕がアイマス関連を多少なりとも追いかけようと決断できる名文だった。アイマスの作品自体よりも、その周辺のファンの方が好きかもしれない。
結局僕はよくわからない屈託が好きなんだなぁと思う。そしてそういったものの発露としての文章が。
長くなったのでこれで終わり。日記じゃない方に書くべきだったかな。