特になんでも無い休日。
日記を書いているとよく思うけど、自分が恐れているものについては明らかに書き味が鈍る。それをはっきり指し示す言葉を避けて、曖昧なレベルでごまかすようなことをしてしまう。
ポケモン・オメガルビーをデータリセットしてやり始めた。根源的に「なにかを育て、それが上手く機能するところを目にする」というのが娯楽になるという感覚は、良くも悪くもわかってしまうところがある。そういう意味ではコンピュータ将棋もだいぶポケモンに近いとは思えて、育成&バトルそのものだ。
ただやっぱり「育成」というのが最近妙に気になっているところであり、それは部分的には反出生主義的な主張に感化されているところもあったりして、どうしても歯切れが悪くなってしまう。できるだけ核心に迫る表現をしようと努めると、「育成とは自分が対象に強く影響を与えることそのものであって、自分はそれから逃げ回っていたのではないか」ということである。アイドル育成シミュレーションゲームから離れているのも関連する話ではあるのかもしれない。自分の一貫性を大事にするならば、いろいろなものを拒絶しなくてはならないのではないかと思っている。
これは現実と虚構を混同する姿勢だとも言えるが、一方でそんな都合よく精神を切り替えられるわけでもないというのは、少なくとも自分については事実であって、態度を決めかねている。自分がどういう考え方を大事にしていて、それに沿って考えるとどういう娯楽は良くて、どういう娯楽は受け入れられないのかについて、もう少し考えないといけない気がしている。
シャワーを浴びながらもう少し考えた。
僕は人権をそれなりに重視し、人間を大事だと思っているから、傷つけないように、悪い影響を与えないように、関わらないという選択を取りたくなる。つまり、裏を返せば、虚構は傷つく主体が居ないから、軽率に扱って良いものだからこそ大事ということになるのではないか。
将棋において、歩という駒は1マス前にしか動けなくて、相手に渡っても弱い駒だから気軽に突き捨てたり、相駒として消費することができる。もし歩が強い駒だったら簡単に相手に渡すことはできない。歩という駒は価値が少ないことによって、逆説的に欠かせないポジションを占めている。
虚構は歩で良いのではないか。VTuberとか、人工知能とかは、歩であるはずの虚構を現実に近づける、価値を底上げするような方向性に思える。歩が金の動きを取り始めたら、今の立場にはいられない。
一週間前には「俺の嫁」といったキャラクターを、今日にはもう顧みることもない。そういう態度こそ実は正しかったのではないか。虚構の価値とは、価値のないことにあったのではないか、そういうことを自分は恐れている。