日記

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20190701

 なんとか今日は動画を全く見ず、インターネットもほとんど見ずに耐えきった。しかし苦しいな。

サンデルの政治哲学?<正義>とは何か (平凡社新書)

サンデルの政治哲学?<正義>とは何か (平凡社新書)

 まだ読み途中。1/3ほどまで読んだ。実際の政治についての話は全然好きではないのだが、こういった原理原則についてのレベルなら好きと言えるのかもしれない。

 まず功利主義に対してどこか納得がいかないところがあることには同意できる。根本的に個人レベルにおいてすら幸福・不幸を定量化、判断できるとは思えないし、それらの総和となるともっと困難だろう。仮に定量化できたとして、A,B,Cの三人の幸福度が2, 2, 2である状況よりも100, -10, -10である状況の方が良いということが必ずしも成り立つとは思えない。

 ロールズによる「無知のベール」の導入とはミニマックス法なのだなと理解した。つまり私がどの人になるかわからないとすると、最小値を最大化するのが合理的と言えそうだとは思う。最も不幸な人になり得るかもしれないので、最も不幸な人の幸福量を最大化する原理ならば、先の例で前者を選べる。これは単なる思考実験にとどまらず、本当に「わたし」がどの人になるかなんてわからないとは思う。明日「わたし」が別に人に乗り移るようなことだってあり得ると思う。もちろんそれを「とくみに」は認識できないのでこれは無意味な想定なのかもしれないが。

 無知のベールに戻ると、しかしミニマックスというのも一つの戦略でしかなくて、たとえば期待値最大化(これだともとの功利主義に戻る)ではダメな根拠がはっきりと示せるのかどうかはわからない。最小値を最大化する原理は無条件に導入することのできるものなんだろうか。

 やはりそこが問題なようで、無知のベールが結局共同体主義の言い換えでしかないという指摘に繋がる。最小値を最大化する原理が結局共同体主義に根拠を持つものだと言われればそこそこ納得感はあるか。共同体という言葉にあまり良くないイメージがあるため何となく抵抗してみたくなるが、あえて本の中ではカタカナでコミュニタリアニズムと書くと宣言されたことを踏まえるとその良くないイメージはあまり入らない言葉なのかもしれない。

 個人という概念が本当に成り立つものなのかは多少疑問に思うところがある。自分とそれ以外って、本当にそんなにきっぱりと分けられる? たとえば将来すごいロボットができて、各家庭に一台導入されるようになって、しかしそれらは全てインターネットで繋がっているとする。このとき一つのロボットを「個体」と感じる根拠はいくらか薄まりそうな気がする。翻って人間について考えたとき、インターネットほど明確な繋がりではなくとも、しかし同じような形式で存在しているんじゃないだろうか。

 しかし個人という概念は人権という概念と仲が良さそうなので、個人を否定すると人権の基盤が怪しくなりそうだ。その意味で僕は人権原理主義ではないのかもしれない(糸谷哲郎とは、違う!)。

その他

 ちゃんと哲学の本を読むのは浪人生のとき以来な気がする。浪人生のときはもっと真剣に救われようといろんな本を気合入れて読んでいた(過去を美化しているだけかもしれない)。大学に入ってから、特にプログラミングを始めてからあまりそっちに気が向かなかったんじゃないか。馬鹿め、プログラミングで救われると思ったか。そうは問屋が卸さない。簡単に楽になれると思うなよ。