日記

日記です

20190603

 今日は講義が休みで何もない日、かと思ったらB4の人たちの発表練習があって3時間が消えた。疲れるわりには得も少なさそう。同期は誰も来ないしそれが賢い行動な気がする。そのあとは先輩から就活の話とか人生設計の話をされて精神が終わった。疲労感と精神の終わりでまともに作業も進まず帰宅。

 帰宅してパソコンを点けたらようやくイの応募先から連絡が来ていて正式に落ちたのが確定した。準備期間を十分に取られたからか思ったよりショックではないかもしれない。一斉に通知だったら結局落ち込んでいただろうけど。さて次に向けて動き出さねば。いや悲しいが。

錯覚と主体

 ミュラー・リヤー錯視について知識を得ても、やはり外側に斜線がついている線の方が長く見えていることには変わりはない。同じことが幸福についても言えるだろうか。ある選択肢A,Bについて、実際にはBの方が幸福度が高いのだがAの方が良さそうだと"思える"状況があり、その錯覚について正しい知識を得てもやはりAの方が良さそうだと思ったままなのかもしれない。

 Aが良く思えても"実は"Bの方が良いのだと判断するその主体がなんなのかわからない。その"実は"がどういう意味なのかもわからない。長い目で見た幸福感の期待値最大化を追求する主体とはどのようなものなんだろうか。なぜ刹那的な快楽を求めることは間違っていて幸福の総和を最大化することが重要なんだろうか。「今」と「わたし」が同じものだとしたら、時間を通して幸福量の和を取ろうとするモチベーションは持てないように思える。

 刹那的快楽を重視すれば、やはり可逆性なんてどうでもよくなって再びドラッグを否定する理屈を失う。やはり否定する理屈なんてなくてただ機会がないだけなのかもしれない。極論と極論を戦わせている自覚はあるが、それを考えずにはいられないのだ。