日記

日記です

20190406

将棋

 叡王戦つい観てしまうね。途中まで観て競プロに行って帰ってきたら逆転しててひぇーというやつ。あれ逆転するのか。それは前年が思い出されてしまうなぁ。どちらに肩入れして観るか決まらないまま始まってしまったけど、このまま負けていくのはあまりにも悲しいので今後は叡王持ちで。

シャニマス

 新キャラの二人をW.I.N.G.シナリオやって、両方とも一発で優勝できた。Aランク目指す必要がなかったというものあったけど、Vi特化での動きが安定してきたかなぁ。

 芹沢あさひさんは意外と正統派なんですね。もっと気だるげな感じかと思っていた。

 黛冬優子さんは、この展開をシャニマスみたいな形式でやるのはちょっと無理があるのではと感じた。辞めるっつってから次の週で普通にお仕事やってるのがシュール過ぎてギャグに見える。そしてシナリオ終わってからプロフィール見たんだけどこの人19歳という設定らしくてそれがめちゃくちゃ面白かった。どういう順番で年齢を決めるのかわからないけど、たとえばキャラクターの性格とかが先に決まっていたとして、この性格に19歳を与えるのはかなり気が狂ってるんじゃないかと思う。この性格で19年生きるということを想像したのか、それは地獄ではないのか? そうでもないのかもしれないけど。黛冬優子さんと芹沢あさひさんが同じユニットに入れられているのも面白ポイントで、それはなかなかに残酷なことなのではないかと思ってしまうが、僕が悪い方向に物事を考える傾向にあるからなだけかもしれない。

 分量の差!

 プロデューサーが救済者的な立ち位置になってしまうとキャラクターを救済するためにあえて事前に苦痛を与えているように見えてしまってそれは大変悪趣味だなぁと思うんだけど僕がそういう読み方をしているに過ぎない。僕の中でそういうのを求めてしまう部分があるということ。救うために苦しめるみたいなのは地獄もいいところ。キャラクターに弱いところを求めるのも同じ精神なのでは? とか疑い出すとどんどん信用ができなくなっていってしまう。あまりそういう変なことを考え始めるべきではない。しかし特別な立ち位置に立つ理由を相手の弱さ(選択肢の少なさ)に依拠させだしたら、それは受け入れがたいなぁ。僕の心性の話です。いやちゃんとシナリオを読み直せよただのハートフルなお話だろうが僕はそこに何を読み込んでいるんだ。自分の邪悪性が映し出されているだけ!

 キャラクターをどこまでいじめられるかというのは重要な要素なんだけど、それに対する救済がまたキャラクター(人)だとそれはただの依存になってしまうのではと思ってしまう。結局上手く依存先を見つけるのが重要だというのは寂しい結論じゃないか(僕にとっては)。だからボーイミーツガールは別れで終わらないといけないんですよ。人に対する依存ではないことを証明するために人は消えて、それでも重要なものが残るから依存ではないことが示されるんだ(この論理展開がわかる?)。そしてそれをすごい形でやったのがスパイラル~推理の絆~なんですよ。僕はスパイラルをボーイミーツガールと主張している謎の派閥なので。

 そういうことをいろいろ考えていると黛冬優子シナリオではプロデューサーが死ななければならないなぁという感じなって(キャラクターをすぐ殺しがち)、というかやはり種々の気持ち悪さは救済する側のキャラクターをきちんと描けてないからなんじゃないかという話でもあって、プロデューサーという曖昧なキャラクターだとその辺がいろいろできないよねということでやはりアイマスの表現形式に対する限界をまた感じ始めてきた。

 シャニマスをプレイしている時間の多くは食事中で、つまりそういう適当な、心が入ってない状態でもやれるからやっているだけというのはあって、たとえば僕は食事中には絶対小説は読まないよなぁということを考えるとこれもまた邪悪な心性なのではないかと思う。

 勢いだけで書いて読み直していないので文章がめちゃくちゃかも。そういうことをしたいわけではないんだけど時間が。