日記

日記です

20190320

 卒業していくM2の先輩がふらっと現れた。僕はいま口を開けば就職活動に対する不安しか出てこない最低最悪人間になっているので当然就職活動が話題になる。圧倒的な断絶を感じた。根本的に意思決定を行う、電車に乗る、人に会う、そういうことが苦痛ではないんだろうなと思った。コーディング能力で負けるとは思っていないけど、そういう人としてのベースラインで負けているのはそんな些細なことよりも重大そうだ。

 ところで、会話をしていると思ってもいなかったことが口をつくことがあるし、そういうことを続けていると感情をその場で生成してしまっている感覚になる。これはこの日記も同じで、毎日何かを書かなければならないというプレッシャーから感情をひねり出してしまっているのではないかと思うことは多い。しかもそうやってひねり出される感情はたいてい僕が目指しているものではなく、暗かったり落ち込んでいたりするものばかりだ。僕は本当に就職を不安がっていたんだっけ。

読んだ本

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

 本質的に我々は知覚の中へ閉じ込められているわけだから、共通了解なんてものが本当の意味で確立できるわけなんてなくて、そうであろうと思って書き、そうであろうと思って読むことしかできないはずだ。さらに都合の悪いことに書かれる、読まれるそれ自体が変転していくものになっていて、換字式の法則性を見出せばなんとかなるなんてものじゃない。それを描き出すペンこそがこの本自体ということで、ここに一つSelf-Referenceが完了しました。

 情緒的に書くならこれこそが我々の(唯一の)希望だということになってしまうんだろうに、円城塔には何かそういう意気込んだところは感じられない。「~と考えるのは少し楽しい」という文章が円城塔の本質的な部分なんじゃないかなと思う。これだけ難解なことを考えていつつ、そこに妙な深刻さや悲愴さがないというのもまたSF的な(SF界隈的な?)側面だったりするんだろうか。

 先の「感情をひねり出してしまっている」というのとも関連して、感情がありそれを言語化するという捉え方自体が間違っているのかもしれないと思い始めてきた。言及によって始めて定まるもの。書くものと書かれるものの癒着。ここで起こっているのもまたそういうことなのではないか。

 こういう話で頭を悩ませることは、宇宙について考えることで自分の悩みなんてちっぽけだなと思い直すことに似ている。書くことと読みことについて真剣に考えていけば、就職がどうのなんて些細な話じゃないですか。これはそういう対症療法です。