日記

日記です

20190310

 心身二元論が心と身の境界をどこに引いたのかは知らないが、この境界は拡大していっているのではないかと思う。身体の方から見て。

 身体の勢力が拡大し続けた先に唯物論としての統一を果たすというのは幻想にすぎないのだろうか。たとえば感情のごく低レイヤのものについてはもはや身体の一部であるというような印象を受ける。一方で高度な感情、自由意志となると今のところは心の領域にあるものだと思われる。この区切りはどこに?

 なんとなく、自由意志も科学の発達によって身体の方へ回収されるのだろうという予感がある。最終的に区切りは「わたし」とそれ以外になるのではないか。tokuminiなる人物(あるいは本名で指示される人物)が喜ぶ怒る哀しむ楽しむ、それが「わたし」の喜怒哀楽と一致することは唯物論に回収できるのかまだ自信が持てていない。

 というか、そもそもそれらは一致しているのか。当事者意識の欠如。tokuminiが嬉しかったり楽しかったり悲しかったりそういう状況はいろいろあるのだろうけど、結局それが「わたし」にとっていったいなんだというのでしょう。tokuminiが拷問を受けた末に苦しんで死のうが、宝くじで5兆円当てようが、薬物中毒によっておかしくなってしまおうが、それが本当に「わたし」に関係ある話なのか。勝手にしていろよ、という気持ちにもなる。

 ハーモニーで気にくわない点があるとすればこの「わたし」を表すのに意識という言葉を簡単に使っているように見えるところだ。意識といってもこれはたとえば昏睡状態の人を指して「この人には意識がない」というその意識とは違うものであって、それを本当に意識という言葉で指し示すのが適切なのかわからない。

 この意識を外部から観測することはできるのだろうか。僕はいつも今この瞬間から「わたし」という感覚が消えることだってあり得ると考えている。tokuminiが今と同じような振る舞いを全て保っていながら「わたし」ではないということが本当にあり得ると思うんだよ。

 昔はちゃんと「わたし」とtokuminiが一致していたと思う。どこからかズレてきてしまって、今に至る。別に常に乖離しているというわけでもないのだけれど、これを完全に一致させることが強い幸福感を取り戻すための秘訣なのではないか。そう言われても方法なんてわからないが。

 ある種の現実逃避なのだろうとも思えるところはあって、現実を改善すれば一致するのではないかとも思っていたけど、もう4年経ったぜ。この方針に希望はあるか。

 わからない。何もわからないという感覚だけが強い。これを悩んでいるのはtokumini? 「わたし」?