日記

日記です

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アイマス

 三峰結華の一人称が苗字なのはあまり良くない印象で、「私」かなんかと半々くらいで使い分けるのが一番いいなと思っていたんだけど、考えてみると家族の前では一人称が苗字なわけないからこれは余所行きモードなわけでそう思うと大変良いのではないかとも思えてきた。兄への呼称が「お兄ちゃん」とかじゃなくて「兄さん」だったのも良い。由緒正しいブラコンの気を感じる。

 僕はそういうある種の二面性が好きなんだろうけど、アイマスで二面性というと星輝子とか望月杏奈とかを指してしまうことになりかねないのでもっと良い表現があるのかなぁと悩んだりもする。

 まぁしかし三峰嬢も暗い感じの二面性ではなさそうだからどこまで印象が良くなっても結局僕の中ではそこそこ好きくらいには留まりそう。キリキリしたところがあった方がキャラクターとして魅力だと思っている。つまり北条加蓮さんなわけだよな(吹っ切れて元気になっています路線はこれを僕は認めない)。

 このあたりのことを考えていて呟いたのが

 なわけだけど、これで何か伝わる気はしないし伝わらない言葉を僕は良いとは思えない。なのにTwitterだとどうしてもなんかこういう言い方になってしまう。わかるように言うことに対する恐怖がある。

 話がずれた。二面性と言っても二面(二つ)であること自体は本質的ではない気がする。ペルソナ的な考え方で、会う人ごとにモードがあって、違う人へのモードは完全に(その存在すら)隠されているという点が重要なんだ。その秘匿が完全に行われているのにしかし伝わってしまうという状況が好きだし、それは物語というものによってこそ完全に行うことができると思っている。

 つまり登場人物の隠された内面が、読者にだけは伝わってしまうという構造である。やはり随筆とかとは明確に存在様式が違うのだ。誰にも伝えるつもりのない文章、内面の描写というのは、架空の物語世界を創造してようやく達成されるのだと思う。虚構存在はその世界における存在全てに対して秘匿をしつつ、読者にだけはそれを伝えることができる。

 北条加蓮のストーリーコミュは本質的で、「プロデューサーには言えないことを速水奏に対しては言うことができ、それを(プロデューサーと重なる部分がある存在である)我々が覗いている」というねじれた構図なのだ。本来見られないはずのものを見れてしまうという読者の特権。このへんのことを考えていたのが

 なんだけど、つまり主観も読者と同じ特権を有していて、だから僕は僕のことを大好きにならざるを得ないということに繋がったり。だからセカイ系なんだよ。セカイ系を信じろ。

 また話がずれた。アイマスは必然的にある種のメタフィクション的な作りになると思っていて、それゆえこういうねじれた構図を生み出すことができるという点がすごく好きだ。僕が言いたいのはそれだけ。

 なんかいろいろ考えていたらスパークして最近考えていたことが繋がってきそうだなという雰囲気になっている。こういうの日記に書いてしまうのはちょっと違うんじゃないかとも思うんだけど、かっちりとした文章に直すのはそれはそれで手間になってしまい、手間に見合うだけのメリットを感じないのも確かだ。