日記

日記です

1001

 10月の目標は「一人で遊ぶ」です。9月が結構合宿やらなにやらで人と会う機会が多く、なんか社会性のすり減りを感じるんですよね。ここでもう一度一人遊びを見直して自己満足のレベルを上げていきたい。自己満足が上手くできないときっと僕の人生はつらいものになるはずだから……。

 uuunuuunさんがツイ禁するというのを見て僕も便乗することにしました。Twitterから縁が生まれることもあるし良い情報がやってくることもあるし、有益だとは思うんだけど、休みたい時もある。

コンピュータ将棋

 昨夜の悪天候のせいか再起動が発生していて学習が終わっていた。悲しい。

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 そこまでの推移はまぁ順調か。しかし100万局で勝率80%にしかならないっていうの厳しいんだろうな。1週間近く回して90%にも行ってないわけだし。

 ShogiGUIを使って1手1秒で対局させてみると勝率が75%くらいしか出ない。うーん、ランダム性の問題だったりするんだろうか。ちょっと困った。そしてニューラルネット版は符号のミスを修正しても上手く学習しない。困った困った。

氷菓

 dアニメストアに登録して観始めました。

第1話

 ぱなっからの里志の芝居がかった喋り方好きだな。このシリーズ全体を好きになるかどうかとして里志のキャラがどこまで気に入るかというのが大きいと思う。

 最果ての古典部千反田えるとの邂逅シーン、カメラの動き方すごいんだろうな。工夫なんだろうな。何かしらの効果が生まれているんだろうな。

 謎説明シーンの絵が面白いですよね。

 確保シーン(画像はイメージです)。髪の毛が触手のようになって、これはもう妖怪の類だ。原作はどのくらい描写があったっけ。

第2話

 伊原摩耶花さんの登場回。伊原摩耶花さん、めちゃ良いんだよな。

 千反田える嬢、距離の詰め方がえぐすぎる。って毎回観るたびに言っている気がする。

大事なのは真実ではない。千反田が納得することなのだ

 重要なテーマが出てきました。日常の謎ものにはありがちであるとは思うけど、こういうワイダニット的なの好きなんですよね。ミステリとして正当ではないのかもしれないけど。まぁそうは言いつつ古典部シリーズはちゃんとミステリやってる(真実を重要視している)方だと思います(虚構推理に比べれば?)。

 すでにメイド服姿が出てきている。強制的にコースを変更させる千反田える氏が怖すぎる。そういう怖いものとして描こうとしているんだろうな。折木奉太郎の主観世界としては怖いものでなければならない。

 伊原摩耶花の目も光る。

 メモを取るのを放棄して5話まで一気に観た。一連の流れがすごいんだよな。バラ色と灰色の転倒を仕掛けと合わせて鮮やかに演出するのはまさにミステリという感じ。憧れが一周して自己肯定に繋がっていくのが綺麗すぎる。そしてこの姉貴の存在感は、スパイラル的な印象がありますね。全てを見透かす上位者の掌の上で踊る人々。信じる者に幸福はありますか?

 第6話、伊原摩耶花素晴らしいキャラクターなんだよな。なんだこれは。

 なんで唐突に氷菓観たくなったんだろうと不思議に思ってたけど、1年前に観てブログに書いているのを見たからっぽい。1年単位で同じ行動をループしていく。

 愚者のエンドロール編まで観た。ここでこういう話を入れるのが米澤穂信っぽい。僕の中で米澤穂信は性格の悪いイメージが完全についている。しかし演技が熱すぎないか? まぁそういうものかね。

 クドリャフカの順番編に突入。ブレイクダンスのところの作画めっちゃ好きなんですよね。というか文化祭の出し物パートが結構好き。

 漫研の先輩、シャニマスに出てくる人に似てない?

 文化祭一日目は平和だなー。伊原家から消えた『夕べには骸に』これどういうことなんでしょうね。物語の都合上というのでもいいけど。

 今日はここまでかな。半分以上観ちまった。氷菓、やっぱりとても面白い。

虚構世界の存在論

 p.58あたりから。

 作者のやっていることは無数に予在している可能世界をストックとしていくつかの特徴を列挙することによって該当する世界を選び出すことである。発見でも創造でもなく選定と呼ぶことにする。[そうなのかなぁ]

 提示された部分に関しては原則として信頼できるものとできる。どの世界を選ぶか自体には大いに創造の余地があるが、一度その世界と決められると創作者の手を超えて虚構世界は一意に定まる。[一世界説では?]

 テクストは選定の産物である。では未規定の部分はどうなっているのか。D・ルイスの集合説モデルというものがある。そこでは「虚構fにおいて\phiである」が成り立つための必要十分条件は「fが事実として語られておりしかも\phiが真であるような世界があって、それはfが事実として語られておりしかも\phiが偽であるようないかなる世界と比べても、全体的にみてわれわれの現実世界との違いがより小さい」(ラムジーテスト流反実仮想の定義に近い(?))

 これに従えば「ホームズは月に行ったことがある」は偽である方が現実に近い、「ホームズには膵臓がある」「ワトソンの曾祖父母には名前がある」などは真である方が現実に近いと判断することができる。しかしこれでも解決できない命題はあり、たとえば「ホームズがワトソンに初めて会った時にホームズの頭には頭髪が偶数本あった」などである。これらはどちらの方が現実に近い世界かは決定できず、シャーロックホームズは諸世界を持つということになる。

 作品は虚構世界"群"と対応し、その諸世界全部を通じて真である事柄は物語において真、真であったり偽であったりするものは物語において真でも偽でもないとなる。二値性は成り立たないが排中律は守られた。

 ルイスのモデルはなかなか良い点も多いが、やはり世界の集合を考えなければならないという欠点はある。[「虚構の一般読者の存在論的知的レベルはいかほどだろうか、数学者級だろうか、幼児並みか?」という文章が好き]

 また外挿の原理も「現実世界に最も近くなるように」だけではなく、作者の意図に近くなるようにとか、読者の信念世界に近くなるようにとか、はたまた諸々の文学テクストが織りなす世界に近くなるようにだとか、あるいはもっとも美的価値を最大化するようにだとか、様々なものが考えられる。

 たとえばファンタジーとかは各文学テクストが種族について共通の信念を持っていたりする。ドラゴンが火を吐くのはある種"普通"だが、それは現実と近くなるような原理ではなさそうだ。つまり一体どの原理を採用すればいいのかが明白ではない。

 またどれかの原理が最も良い外挿原理として定まったとしても類似性の判定基準もまた曖昧である。さらには曖昧な語、たとえば実数などを含む命題が与えられると真偽が入れ替わる境界を明確に引くことは不可能になる。つまりある記述を真たらしめる集合を一意に定める合理的な方法はない[!]。集合説は記述に対応する集合を決定できず、この不確定性は一世界説の不確定さと実は大差ないものなのではないか。

 ある程度中心を決められるという合理性を集合説に見出す人もいるかもしれないが、一世界説への支持を補強する根拠を4つ示す。

  1. フィクションだと思っていたものがノンフィクションであったと判明するとき、これは虚構として考えていたはずの世界群が現実という一つの世界に収斂する事象が発生してしまうが、これは不合理ではないのか。
  2. ある世界について全性質は特定できないままでも固有名詞を与えて呼び名を付けることは往々にしてよくあることであり、理論的にできないことではない。
  3. 複数の人物像が当てはまり得る虚構の描写について自然な読みでは一人に固定して考えるものである。これと同じことが世界に対しても行える。
  4. 虚構内虚構や虚構が現実に昇格してくることがアプリオリには可能であることを考えると虚構存在は完全な存在でなくてはならない。[これちょっとよくわからなかった]

 虚構についての論理学(認識論)と、虚構における論理学(存在論)を区別しなければならない。そもそも現実世界についての認識も完全ではないため可能性の集合として捉えざるを得ない。しかし存在としては二値的である。これが虚構についても言えるのではないか。[このへんはそれっぽい。やっぱり第一感は一世界説が正しそう、読書のモデルとして合いそうだという思いがある。理屈をいろいろ考えると集合説の方が優位に思えてきてしまうのだが、いやいや一世界説も結構やれるでしょというのが本書のスタンスで、それは好ましいものに思える]