日記

日記です

0929

 昨日の日記は編集途中のものがそのまま上がってしまいひどかった。こういうことになってしまうならさすがにやめた方がいいなぁ。

 今日は昼からふみこんに出て、今日の一問を解いて、ARCに出てと競技プログラミング尽くし。ICPCを一つの区切りとするのかな。そこまではしっかりやっていきたい。

 虚構世界の存在論第2章のあたり。ここで主に小説の話に移る。虚構世界の各要素について大雑把には(1)作品内に直接描写があるもの (2)直接描写はないが自然に推察できるもの (3)不確定なものと 分けられる。この、特に(3)の不確定なものについて、どのような立場があり得るか。反論とセットで言及されている。

 (i)そもそも虚構世界は「世界」と言えるほどのものではなく、(小説であれば)言葉の羅列に過ぎないという立場(言語説):[反論]厳しすぎでは?(なんかあまり言及されていないが、まぁあまり自然な考え方ではないと思う)

 (ii)描写された部分のみが存在し、それ以外の部分はないとする立場(状況説):[反論]良さそうだが難問もある。例えばバスに乗ったという描写(だけ)があるとき、バスの存在は認めることになるが、ではそのバスが何色だったのか? という問いに対しての答えが用意できない。一般化すると「P1またはP2または…Pn」(Piはそれぞれの色:バスがあり、個体であるから色を持つというところまでは状況説の認めるところとなるため色を全て集めるとこれは成り立つ)は認めるのに具体的にどの色とは定められないので「P1でないかつP2でないかつ…Pnでない」が成り立ち、矛盾。つまり排中律が否定される。(排中律の否定になるところがちょっと論理学の知識が甘くてわからない)

 (iii)虚構世界とは描写からありえる状況全てを含んだものとする立場(集合説):描写はある程度世界を規定する。これは描写が命題を示していて、それ以外の部分はどちらも成り立つと言っていることに近い。[反論]排中律は成立するが矛盾律が成り立たなくなる。同でもいい部分はPでもnot Pでもいいわけだから矛盾律が成り立たない。([私見]ここ何が言われているのかよくわからない)本当に可能世界全部を考えたりしているの? という疑問はそうだけど、それのうち一つを体験として受け入れるという話ではないのか? p.48にこれへの再反論があった。つまり読書体験でもつねに虚構世界の全てを想像しながら鑑賞することなどありえず、必ず未規定の部分は存在する。バスの色を想像したとしても、重さは、機構は、窓ガラスの厚さは……などの全てを想像しているなどとは考えづらい。なるほど。また個々人が虚構世界を具体的に構築しているとすると、他人との間に共通理解が成立しないのでは? ともある。虚構世界の安定性にまつわる問題である。個人の中でも明日想像する虚構世界が昨日想像していたものと変わっている可能性があるとなると大変なことである。

 (iv)作品に対応する虚構世界はただ一つ(一世界説):これも未規定の部分は成立するし、読者ごとの同定が不可能(これはちょっとわからない)

 [ここからは私見]二次創作というのはこういう虚構世界の広がりをかなりナイーブに捉えてこそ成り立つというような気持ちもある。七尾百合子がトルストイ太宰治に言及した瞬間、その世界にも他の小説家が存在する予兆が生まれるわけで、そういうところの現実とのリンクが気になったりするわけだ。

 ところでこのペースだと返却期限までには確実に読み終わりません。だれか僕に無限の時間をくれ。

 現実的にはさすがにこの本は買ってしまおうかな。電子化されていないのであれなんだけど。買うと積んでしまう気もして借りてやっているという面もあります。

その他

 かなり書き散らかしている。自分が後で見返して何か得るものがあるギリギリのラインを攻める。本当はもっと丁寧にまとめた方がいいんだろうけど。

 こういう読みたい本が発生したときに読書会をやるみたいな人脈を形成していないのが人生の失敗という感じがある。しかし何度やり直してもそれは無理だろうな。

 本当は一人読書会としてスライドを作るくらいまで丁寧にやりたい。これだけじゃなくてSutton&Barto『強化学習』の第2版が英語のやつは公開されているし、それもやりたい。本に書かれているものをまた文章でまとめるのアホっぽいし、なんか図式的な要素が欲しくてやっぱりスライドを作るべきなのかなぁと。

 「一人読書会」という言葉の圧倒的な強さな。