日記

日記です

1003

 コンピュータ将棋はバグが取れないまま。ニューラルネットの勾配がすぐ爆発する。ひょっとしてアーキテクチャが致命的にダメなんじゃないかという気がしてきたが、BonanzaMethodはちゃんと動くという実績が心の支えになっている。しかしそれももう一度検証してみないともう怖い。何もわからない。

 同期の環境構築を数時間手伝っていた。のに終わらなかった。UbuntuとCUDAとtensorflowとPythonのバージョン関係がしっちゃかめっちゃかになって何もわからない。こういうの本当にやっていて辛くなってしまうし、僕はフルスクラッチで書きたいなぁと思ってしまうんだ。

 氷菓の続きを観ていく。「期待」がテーマになる『クドリャフカの順番』編。でもちょっとだけバランスが悪い印象もある。原稿をナトリウムで燃やすの結構危ないし、トリックも結構成功確率が低い気がする。探偵役としての折木の重要度が微妙なんですよね。これが単体の作品なら探偵自体にももっとフォーカスできるような仕掛けをまた用意できたんじゃないかなぁ。しかし伊原摩耶花さんに良さがあるので全て正義です。ある種のバランスの悪さは、そういうところにも原因があるんだろうな。

 虚構世界の存在論は論理式と専門用語が飛び交う難しい部分に差し掛かってきた。論理学の基礎的な部分は学部の講義でやったことがあるとはいえなかなか馴染まない。前回は確かこのあたりで挫折したのだった。貸出期間の延長ができることに気がついたので、結構じっくり読むことができるらしい。メモは別のところに取りながら読んでいます。

1002

コンピュータ将棋

 モンテカルロ木探索、見れば見るほど探索回数が多く必要そうに思えるんだけど、学習時には800で自己対局って正気なんだろうか。なにか静止探索的なものを入れている? 一つ変な手があっただけで平均化がちゃんとなされるまで大変な値が出続けてしまう気がするんだけど。そして平均化するにはかなり多くの探索回数が必要なような……。

 わからん。もう一度AlphaZeroの論文を読み直した方がいいんだろうな。というか最近本当に論文読んでなくてなぁ。そのわりに実装が進んでいるわけでもなく。何をしているかというと何もしていなのだ。

将棋観戦

 王座戦が熱かった。棋士も数多くいるけれど、中村王座の対局姿は随一と言っていいくらいカッコいい。王座戦はちょうど一日制で夜遅くまでやっているのもあり、自然と見る機会も多くなって好きなタイトル戦ですね。始まる前はどちらに肩入れするわけでもなくといった感じだったけれど、今では完全に王座側になってしまっています。

 前局も序盤は優位に立っていたとのことだし、次局は先手番。これはフルセットまで観たいですね。斎藤挑戦者も好きな棋士ではあるんだけど、王座がイケすぎている。

 解説の永瀬七段は、なんというか結構感覚派っぽい解説調なんだよな。感覚を練り上げるためにたくさん努力しているということなのだろうか。こんなにいろいろ言うキャラだったっけという感じ。ダイエットに拘っているのが面白かった。

その他

 「一人で遊ぶ」の重要な点は共感を求めないという点なんだけど、どうして共感というものはあんなにも心地よいものなんだろうな。共感を求めず自給自足。強いオタクになろうな。

 今日は将棋観てばかりだったので本も読めないしアニメも観れなかった。

 久しぶりに一日の終わりにまとめて書く形式に戻した。20分くらいかけてなんかサラッと書けたらなと。

1001

 10月の目標は「一人で遊ぶ」です。9月が結構合宿やらなにやらで人と会う機会が多く、なんか社会性のすり減りを感じるんですよね。ここでもう一度一人遊びを見直して自己満足のレベルを上げていきたい。自己満足が上手くできないときっと僕の人生はつらいものになるはずだから……。

 uuunuuunさんがツイ禁するというのを見て僕も便乗することにしました。Twitterから縁が生まれることもあるし良い情報がやってくることもあるし、有益だとは思うんだけど、休みたい時もある。

コンピュータ将棋

 昨夜の悪天候のせいか再起動が発生していて学習が終わっていた。悲しい。

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 そこまでの推移はまぁ順調か。しかし100万局で勝率80%にしかならないっていうの厳しいんだろうな。1週間近く回して90%にも行ってないわけだし。

 ShogiGUIを使って1手1秒で対局させてみると勝率が75%くらいしか出ない。うーん、ランダム性の問題だったりするんだろうか。ちょっと困った。そしてニューラルネット版は符号のミスを修正しても上手く学習しない。困った困った。

氷菓

 dアニメストアに登録して観始めました。

第1話

 ぱなっからの里志の芝居がかった喋り方好きだな。このシリーズ全体を好きになるかどうかとして里志のキャラがどこまで気に入るかというのが大きいと思う。

 最果ての古典部千反田えるとの邂逅シーン、カメラの動き方すごいんだろうな。工夫なんだろうな。何かしらの効果が生まれているんだろうな。

 謎説明シーンの絵が面白いですよね。

 確保シーン(画像はイメージです)。髪の毛が触手のようになって、これはもう妖怪の類だ。原作はどのくらい描写があったっけ。

第2話

 伊原摩耶花さんの登場回。伊原摩耶花さん、めちゃ良いんだよな。

 千反田える嬢、距離の詰め方がえぐすぎる。って毎回観るたびに言っている気がする。

大事なのは真実ではない。千反田が納得することなのだ

 重要なテーマが出てきました。日常の謎ものにはありがちであるとは思うけど、こういうワイダニット的なの好きなんですよね。ミステリとして正当ではないのかもしれないけど。まぁそうは言いつつ古典部シリーズはちゃんとミステリやってる(真実を重要視している)方だと思います(虚構推理に比べれば?)。

 すでにメイド服姿が出てきている。強制的にコースを変更させる千反田える氏が怖すぎる。そういう怖いものとして描こうとしているんだろうな。折木奉太郎の主観世界としては怖いものでなければならない。

 伊原摩耶花の目も光る。

 メモを取るのを放棄して5話まで一気に観た。一連の流れがすごいんだよな。バラ色と灰色の転倒を仕掛けと合わせて鮮やかに演出するのはまさにミステリという感じ。憧れが一周して自己肯定に繋がっていくのが綺麗すぎる。そしてこの姉貴の存在感は、スパイラル的な印象がありますね。全てを見透かす上位者の掌の上で踊る人々。信じる者に幸福はありますか?

 第6話、伊原摩耶花素晴らしいキャラクターなんだよな。なんだこれは。

 なんで唐突に氷菓観たくなったんだろうと不思議に思ってたけど、1年前に観てブログに書いているのを見たからっぽい。1年単位で同じ行動をループしていく。

 愚者のエンドロール編まで観た。ここでこういう話を入れるのが米澤穂信っぽい。僕の中で米澤穂信は性格の悪いイメージが完全についている。しかし演技が熱すぎないか? まぁそういうものかね。

 クドリャフカの順番編に突入。ブレイクダンスのところの作画めっちゃ好きなんですよね。というか文化祭の出し物パートが結構好き。

 漫研の先輩、シャニマスに出てくる人に似てない?

 文化祭一日目は平和だなー。伊原家から消えた『夕べには骸に』これどういうことなんでしょうね。物語の都合上というのでもいいけど。

 今日はここまでかな。半分以上観ちまった。氷菓、やっぱりとても面白い。

虚構世界の存在論

 p.58あたりから。

 作者のやっていることは無数に予在している可能世界をストックとしていくつかの特徴を列挙することによって該当する世界を選び出すことである。発見でも創造でもなく選定と呼ぶことにする。[そうなのかなぁ]

 提示された部分に関しては原則として信頼できるものとできる。どの世界を選ぶか自体には大いに創造の余地があるが、一度その世界と決められると創作者の手を超えて虚構世界は一意に定まる。[一世界説では?]

 テクストは選定の産物である。では未規定の部分はどうなっているのか。D・ルイスの集合説モデルというものがある。そこでは「虚構fにおいて\phiである」が成り立つための必要十分条件は「fが事実として語られておりしかも\phiが真であるような世界があって、それはfが事実として語られておりしかも\phiが偽であるようないかなる世界と比べても、全体的にみてわれわれの現実世界との違いがより小さい」(ラムジーテスト流反実仮想の定義に近い(?))

 これに従えば「ホームズは月に行ったことがある」は偽である方が現実に近い、「ホームズには膵臓がある」「ワトソンの曾祖父母には名前がある」などは真である方が現実に近いと判断することができる。しかしこれでも解決できない命題はあり、たとえば「ホームズがワトソンに初めて会った時にホームズの頭には頭髪が偶数本あった」などである。これらはどちらの方が現実に近い世界かは決定できず、シャーロックホームズは諸世界を持つということになる。

 作品は虚構世界"群"と対応し、その諸世界全部を通じて真である事柄は物語において真、真であったり偽であったりするものは物語において真でも偽でもないとなる。二値性は成り立たないが排中律は守られた。

 ルイスのモデルはなかなか良い点も多いが、やはり世界の集合を考えなければならないという欠点はある。[「虚構の一般読者の存在論的知的レベルはいかほどだろうか、数学者級だろうか、幼児並みか?」という文章が好き]

 また外挿の原理も「現実世界に最も近くなるように」だけではなく、作者の意図に近くなるようにとか、読者の信念世界に近くなるようにとか、はたまた諸々の文学テクストが織りなす世界に近くなるようにだとか、あるいはもっとも美的価値を最大化するようにだとか、様々なものが考えられる。

 たとえばファンタジーとかは各文学テクストが種族について共通の信念を持っていたりする。ドラゴンが火を吐くのはある種"普通"だが、それは現実と近くなるような原理ではなさそうだ。つまり一体どの原理を採用すればいいのかが明白ではない。

 またどれかの原理が最も良い外挿原理として定まったとしても類似性の判定基準もまた曖昧である。さらには曖昧な語、たとえば実数などを含む命題が与えられると真偽が入れ替わる境界を明確に引くことは不可能になる。つまりある記述を真たらしめる集合を一意に定める合理的な方法はない[!]。集合説は記述に対応する集合を決定できず、この不確定性は一世界説の不確定さと実は大差ないものなのではないか。

 ある程度中心を決められるという合理性を集合説に見出す人もいるかもしれないが、一世界説への支持を補強する根拠を4つ示す。

  1. フィクションだと思っていたものがノンフィクションであったと判明するとき、これは虚構として考えていたはずの世界群が現実という一つの世界に収斂する事象が発生してしまうが、これは不合理ではないのか。
  2. ある世界について全性質は特定できないままでも固有名詞を与えて呼び名を付けることは往々にしてよくあることであり、理論的にできないことではない。
  3. 複数の人物像が当てはまり得る虚構の描写について自然な読みでは一人に固定して考えるものである。これと同じことが世界に対しても行える。
  4. 虚構内虚構や虚構が現実に昇格してくることがアプリオリには可能であることを考えると虚構存在は完全な存在でなくてはならない。[これちょっとよくわからなかった]

 虚構についての論理学(認識論)と、虚構における論理学(存在論)を区別しなければならない。そもそも現実世界についての認識も完全ではないため可能性の集合として捉えざるを得ない。しかし存在としては二値的である。これが虚構についても言えるのではないか。[このへんはそれっぽい。やっぱり第一感は一世界説が正しそう、読書のモデルとして合いそうだという思いがある。理屈をいろいろ考えると集合説の方が優位に思えてきてしまうのだが、いやいや一世界説も結構やれるでしょというのが本書のスタンスで、それは好ましいものに思える]

0930

 さんざんアニメは好きじゃないとか言っておいてあれだけど、今日はなんか唐突に氷菓が観たくなった。dアニメストアに登録しようかなと思ったけど、月末までで1か月計算とあってさすがに今日登録するのは馬鹿らしかったのでやめた。明日この気持ちが続いていればします。代わりにニコニコのプレミアムを解約した。まぁ最近は将棋放送しか観ないし、それなら将棋公式チャンネルを登録した方が直接そっちにお金が入っていいのかなーとかちょっと思ったり。

 物語を摂取したい気持ちが湧いてきた。良い傾向なんじゃないかなと思います。

 Twitter、もっと堅い使い方をしたいんだよな。10月はそういう感じを目指します。しかしそうすると本当にどうでもいいことを呟く場所が欲しくなる。まぁここなんですが。

 天候にビビッて今日も研究室に行かなかった。今週は3回くらいしか行ってないのでは? 研究モチベーションの低下が結構深刻かもしれない。

虚構世界の存在論

 p.49あたりから。基本的には本の内容の要約。[このかっこ内]は僕自身の感想。(しかし[]は()を繋げるとマークダウンにおけるリンクになるのでちょっと使い勝手が悪い)

 状況説は排中律が否定されてしまう。この問題をもっと精査すると実は虚構世界において「Faまたはnot Fa」は成り立つが「Faが真であるか、not Faが真であるかいずれかである」(二値性の法則)が成り立たないということになる(?) [どっちかであるとはいえるけど具体的にどっちかが正しいということは言えないということ、という意味はわかるけど……] (そもそも現実世界でも二値性の法則って成り立ってないんじゃねというのを反実在論というらしい)

 作者は別世界を覗き見て報告する存在ではなく、まさに世界を創造する。報告に過ぎないとしたら我々はそれを検証するステップを踏まなければならなくなる。剣と魔法のファンタジーに何かトリックがあるのではないかと精査しなければ不合理だ。[なるほどこれは確かにそうかもしれない。それに作者が報告員に過ぎないというのはちょっと寂しいようにも思える。やはり創造という行為は存在する気がする]

 創造だとすると作者が創造しなかった部分は端的に無であるので、具体的にどちらかということは認められない(二値性の法則の否定)。しかし排中律自体は認めてもよい(どちらかであるということは認められる)。しかしこれは言語説的な(小説は結局のところ単なる言葉なのであるという)作品観に行きつく[まぁそうかなぁ]。作者の行為は発見報告でもなく無からの創造でもないという立場がありえるはずだ。[なんか新説が出てきた]

 全てが創造だとすると、作中で矛盾する要素が描写されたらどうなるか。作品を命題リストとするとそこに矛盾があれば全ての出来事を含むということになる。作品とて不可侵なものではなく、明らかに作者のミスと思われる描写があればそれを除いて考えることは自然である。結局、他の描写と矛盾しない命題については創造的なものとみなし、矛盾があるような部分に関しては発見的なものとみなすのが良いのではないか。普通創造は上手くいき、部分的に存在するミスや不十分である点に関してはその虚構世界の仕組みに適合するような形で決定するのだ。[これはまぁ確かにという感じがする。○○説と○○説の二項対立的な構図に持ち込まれるとどちらかが正しそうと思ってしまうが、まぁ折衷は取るものだ]

 今日はあんまり読み進められなかった。

その他

 プログラミングをやっているモチベーションとして職に有利そうという思いはちょっとあるわけで、たとえば貯金が5兆円とかあって生活の心配が一切なかったとしたらプログラミング始めてなかったかもしれないなぁとは思う。そうしたらきっと哲学をやっていたんじゃないかな。いや、まずそこへ精神が向かわず遊んで暮らしているか。

 理系の選択したのは高校生の時に物理・化学の方が地理とか歴史より多少できたからという理由に過ぎないし、本当に下らない区分けだと思う。弊学の理系に哲学科があったらそれを選んでいたんじゃないかな。学部の講義で一番面白かったのは1年のときの分析哲学入門で、次は3年のときの科学哲学、あるいは脳科学とかを含めた言語哲学かな。うーん、今振り返ってみると情報工学科の講義でめちゃくちゃ面白いと思うものはあまりなかったなぁ。

0929

 昨日の日記は編集途中のものがそのまま上がってしまいひどかった。こういうことになってしまうならさすがにやめた方がいいなぁ。

 今日は昼からふみこんに出て、今日の一問を解いて、ARCに出てと競技プログラミング尽くし。ICPCを一つの区切りとするのかな。そこまではしっかりやっていきたい。

 虚構世界の存在論第2章のあたり。ここで主に小説の話に移る。虚構世界の各要素について大雑把には(1)作品内に直接描写があるもの (2)直接描写はないが自然に推察できるもの (3)不確定なものと 分けられる。この、特に(3)の不確定なものについて、どのような立場があり得るか。反論とセットで言及されている。

 (i)そもそも虚構世界は「世界」と言えるほどのものではなく、(小説であれば)言葉の羅列に過ぎないという立場(言語説):[反論]厳しすぎでは?(なんかあまり言及されていないが、まぁあまり自然な考え方ではないと思う)

 (ii)描写された部分のみが存在し、それ以外の部分はないとする立場(状況説):[反論]良さそうだが難問もある。例えばバスに乗ったという描写(だけ)があるとき、バスの存在は認めることになるが、ではそのバスが何色だったのか? という問いに対しての答えが用意できない。一般化すると「P1またはP2または…Pn」(Piはそれぞれの色:バスがあり、個体であるから色を持つというところまでは状況説の認めるところとなるため色を全て集めるとこれは成り立つ)は認めるのに具体的にどの色とは定められないので「P1でないかつP2でないかつ…Pnでない」が成り立ち、矛盾。つまり排中律が否定される。(排中律の否定になるところがちょっと論理学の知識が甘くてわからない)

 (iii)虚構世界とは描写からありえる状況全てを含んだものとする立場(集合説):描写はある程度世界を規定する。これは描写が命題を示していて、それ以外の部分はどちらも成り立つと言っていることに近い。[反論]排中律は成立するが矛盾律が成り立たなくなる。同でもいい部分はPでもnot Pでもいいわけだから矛盾律が成り立たない。([私見]ここ何が言われているのかよくわからない)本当に可能世界全部を考えたりしているの? という疑問はそうだけど、それのうち一つを体験として受け入れるという話ではないのか? p.48にこれへの再反論があった。つまり読書体験でもつねに虚構世界の全てを想像しながら鑑賞することなどありえず、必ず未規定の部分は存在する。バスの色を想像したとしても、重さは、機構は、窓ガラスの厚さは……などの全てを想像しているなどとは考えづらい。なるほど。また個々人が虚構世界を具体的に構築しているとすると、他人との間に共通理解が成立しないのでは? ともある。虚構世界の安定性にまつわる問題である。個人の中でも明日想像する虚構世界が昨日想像していたものと変わっている可能性があるとなると大変なことである。

 (iv)作品に対応する虚構世界はただ一つ(一世界説):これも未規定の部分は成立するし、読者ごとの同定が不可能(これはちょっとわからない)

 [ここからは私見]二次創作というのはこういう虚構世界の広がりをかなりナイーブに捉えてこそ成り立つというような気持ちもある。七尾百合子がトルストイ太宰治に言及した瞬間、その世界にも他の小説家が存在する予兆が生まれるわけで、そういうところの現実とのリンクが気になったりするわけだ。

 ところでこのペースだと返却期限までには確実に読み終わりません。だれか僕に無限の時間をくれ。

 現実的にはさすがにこの本は買ってしまおうかな。電子化されていないのであれなんだけど。買うと積んでしまう気もして借りてやっているという面もあります。

その他

 かなり書き散らかしている。自分が後で見返して何か得るものがあるギリギリのラインを攻める。本当はもっと丁寧にまとめた方がいいんだろうけど。

 こういう読みたい本が発生したときに読書会をやるみたいな人脈を形成していないのが人生の失敗という感じがある。しかし何度やり直してもそれは無理だろうな。

 本当は一人読書会としてスライドを作るくらいまで丁寧にやりたい。これだけじゃなくてSutton&Barto『強化学習』の第2版が英語のやつは公開されているし、それもやりたい。本に書かれているものをまた文章でまとめるのアホっぽいし、なんか図式的な要素が欲しくてやっぱりスライドを作るべきなのかなぁと。

 「一人読書会」という言葉の圧倒的な強さな。

0928

 学習を回していると何もできなくなってしまう。そろそろ進捗発表のスライドを作り始めないといけないわけだが……。

 三浦俊彦『虚構世界の存在論』を読み始めた。以前も一度挑戦したことはあるんだけど、途中で挫折してしまったのだった。今回も大学の図書館から借りてからすでに数日経っており、かなり暗雲が立ち込めている。しかし面白いんだよな。

 読書メモを取っていきたいなという気持ち。すぐ諦めそうだけど。

作品の変貌と同一性

 まず取り扱われるのは、歴史的作品の修正に関する問題。宮沢賢治の詩について原文と間違ったものが流布していたと発覚することや、古い絵画のくすんだ色は経年劣化の影響でありもともとそれが作者によって表現されていたわけではなかったと判明することなどが哲学的問題を呼び起こす。作品の同一性に関係しているのだと思う。

p.4 哲学はあらゆる場面に対応すべく先回りしなければならないので

 何気ない文章だけどちょっと素敵だなと思った。具体的に今困っているわけではなくとも、先回りするんですよ。

 p.5あたりのノアとアダムの可能世界での入れ替わりパラドックス(チザムのパラドックス)が以前はちょっとピンとこなかったけど、今はちょっとだけわかる気がする。しかし

p.5 あらゆる性質から独立した個体原理(haecceity)

 というのは想定されるものなのかなぁ。どうなんだろう。これを芸術作品についても考えたときにどうなるか。本書では極端な場合として、二つの作品AとBがこうした新事実の発見により、正しい姿はそれぞれBとAだったという状況が挙げられる。まずパッと思うのは、時間的な同一性、歴史性? みたいなものが重要なんじゃないかなぁという印象だけど、そう簡単な話でもないらしい。"芸術作品として"そのような歴史性が必然なのかと言われれば、つまりそれは作品についての知識がないと鑑賞体験ができなくなるという話になってしまう?

外延と現象

 作品の歴史性を重んじる(外延主義)か、その作品の現在の在り方を重んじる(現象主義)かという二択が生まれる。鑑賞をする上で作品の来歴なんてものはどうでも良くて、今知覚できるものこそが重要だという意見もなかなか説得力はあるわけだよな。

p.17 人類が長年集団幻覚に罹っていて虎を固体のように思っていたが実はガスの塊だったとわかっても、やはりそれは依然として虎だろう。しかし独身男とは実は女であったとか、独身男とは実は結婚しているものだったとかいうことが判明するなどということは考えられない

 自然種(虎)と名目種(独身男)の違い。自然種は外延主義、名目種は記述主義に対応。作品は自然種か自然種か? 名目種か?

 現象主義…芸術作品は技巧の産物 vs 直接指示的外延主義…芸術作品は天才の自然的霊感の賜物

 筆者は現象主義寄り。

第二章 虚構世界とは何なのか:不完全性

 虚構に二値論理学を適用することの是非!

 やっぱり本を読んだあとはその内容を他人に説明するステップを踏もうとすると理解の不十分さが浮き彫りになるんですね。

0927

競技プログラミング

 今日の一問。毎度毎度2時間近くかかるのは厳しいなぁ。1時間悩んだ末に解けるというのが理想的な形なんだけど、なかなか。

コンピュータ将棋

 KPPT型評価関数をelmo絞りで学習させている推移

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 わりと順調に伸び続けてはいるんですかね。この前途中で切り出したものをShogiGUIで自己対局にかけてみたところ、そのときの勝率出力とだいたい同じくらい(61~62%)だったので自己対局部分がバグっているということもそんなになさそう(それに浅い探索の対局でもそこそこ信用できる結果だということにもなる?)。

 今回の一番最後の結果を見てみると約63時間でEloレート+124.6ということになり、これは速いのかどうのか。1か月くらい回せば収束するのか? 4コア8スレッドの一般的なデスクトップを使っているだけなので、計算資源としては貧弱なんだろう。ゼロベクトルの評価関数のレートAdaGradを入れるとか、もっと探索部を高速化するとか、ランダム性の偏りをなんとかするとか、そういう工夫をやっていけばもっと速くはなりそう。

 やっぱり時間がかかりすぎるので、研究で本将棋をやっていくのはつらいかなぁという気分にもなってきた。もっと簡単なゲームを題材にするとか……。まぁとりあえずはKPPT型をいじっていて気付いた勾配の符号ミスを修正してにゅ~らるねっと版も学習回してみたいところですが。

日記

 ここのところサボっていたけど、一年前の日記をいくらか見返していた。あまりテンションも変わってないのかなぁという感じ。結構デレステをやっている。

 アニメがあまり好きではないという話。周囲の人がよく観ていたから僕も流されて観ることが多かっただけなんでしょうね。高校を卒業してからまともに1クール通して観たものがない気がする。今では1話すら観ることはなくなってしまった。

 でもアニメーションという表現形式が嫌いなわけではなくて、たとえば映画を観るならどちらかというと実写よりもアニメ映画を選んでいると思う。この前もペンギンハイウェイ観たし。人の造形が好きではないから実写よりは多少デフォルメされている方がいいんですよね。人の顔をずっと眺めているといつの間にかパーツがバラバラになって混乱してきてしまう。

その他

 今日は立ち上がりがちょっと思うようにいかなかったけど全体として見ればまぁって感じですか。初回3失点でもそのあと粘って6回3失点みたいな。

 はてなブログ、お題とやらを表示してくるのが非常にうざったい。

 どんな職に就きたいとか、そろそろ考え始めなくてはまずいのだろう。

 世界が救われると良いな。世界が救われて欲しいと祈りながら毎日眠りについています。もちろん嘘です。